やさしいふりでもいい
「ただいま〜。」
姫乃がうたかた荘に戻ると誰もいないのかリビングはしんと静まり返っていた。
「誰もいないのかな?」
呟いて、まずは管理人室のドアをそっと開ける。
覗き込むと布団から外れて壁にもたれ掛る様に眠る明神。
もうこれ以上は壁があって進めないのにそれでもうんうん言いながら壁の方へ方へと転がろうとしている。
「…どこ行こうとしてるの。」
毎度毎度、この寝相の悪さには驚かされたり呆れたりするけれど、まあ部屋の中に居てくれるならまだましな方かと考え直す姫乃。
きっと直ぐにはだけてしまうんだろうなと思いながら、掛け布団を転がろうとして転がれない明神にそっとかけてやる。
「風邪ひいちゃうよ。じっとしてて。」
おまじないのつもりで耳元で囁いてみる。
眠っていても聞こえているのか寝ぼけているのか、明神は「うう…。」とだけ言うと、掛けられた布団に潜り込む。
姫乃はそれを見ると少し笑って管理人室をあとにした。
階段を上って自分の部屋のドアを開ける。
鞄を置いて、伸びを一つ。
はあ、とため息を吐き、着替えようとタンスに手を伸ばした時、自分の机の上に見慣れない物を見つけた。
「あれ?」
朝にはなかったそれは、どうやら手紙。
自分に届いた物を明神が運んで来てくれたのだろうか。
何となく、郵便屋の格好をした明神を想像してくすりと笑う姫乃。
姫乃は、それを手に取ってみた。
「誰からだろ。」
見慣れない字。
エアメール。
背中がゾワゾワして、胸がぐっとなった。
あて先は自分。
おけがわひめの
差出人は、もう何年も声すら聞いていない、父からの物だった。
反射的に、と言っていい位、何かを考える間もなく姫乃はその父からのエアメールを握りつぶした。
「…お母さんの、お葬式にも来なかったくせに…!!」
喉の奥から搾り出した言葉は、自分でも驚く位恨みがましいものだった。
今から着替えて夕飯の支度をゆっくりと、と考えていたのに、何かしようという気が全くなくなってしまった。
セーラー服のリボンをしゅるりと解くと、それを放ってそのまま床にゴロンと転がる。
頭の中が沸騰しているのが自分でも解かる。
今自分が抱いているのがとても汚い感情だという事も解かる。
姫乃は眠くもないのに無理矢理目を閉じた。
それから数時間、何もせずにそのまま床に転がっていると、トントンと階段を上ってくる足音が聞こえた。
その音を耳をすまして聞く姫乃。
一定のリズムで近づいて来るその足音は、真っ直ぐこの部屋へと向かっている。
とは言っても、二階の部屋で人が住んでいるのは自分の部屋しかないのだから当たり前なのだけれど。
足音は部屋の前で立ち止まると、やや遠慮がちにドアをノックした。
何となく黙ったまま応えないでいると、少し間があって今度は声がした。
「あ〜、ひめのん。寝てんのか?」
さっきまで寝ていた明神の声。
時計を見るともう6時を回っていて、いつもなら既に夕飯の支度を始めていたり、明神が寝ていたら起こしている時間だった。
「起きてるよ。」
本当は何も答えたくなかったけれど無視するのも悪いと思い、とりあえず返事をする。
大体、今何もする気がしないのも明神のせいではなく、自分だけの問題なのだから明神に八つ当たりする方がおかしい。
そう考え直し、ペチペチと頬を叩くと「えい」と起き上がると部屋の明かりをつけた。
「ごめんなさい。寝ちゃってた。」
なるべく明るい声をと努めたけれど思ったより強張った声が出た。
「…ひめのん、あけるぞ〜。」
言って、明神がドアを開け顔を覗かせる。
「お邪魔します。」
のっそりと入ってきた明神は、まだ寝起きなのか頭に寝癖がついたままだった。
目線をチラリと机の上に移し、握りつぶされた手紙を見ると直ぐに姫乃に目線を移す。
「大丈夫か?気分悪い?顔色あんま良くねえな。」
手紙はまるで見なかった事の様に振舞う明神。
なんとなく、ぎこちない空気が流れた。
「そうかな?いつも通りだよ。」
にっこりと笑ってみせる姫乃。
嘘の笑顔。
(どこで覚えちまったんだそんな笑い方)
明神は頭を抱え「う〜ん」と唸ると頭をわしゃわしゃと掻いた。
こういうのは苦手なんだ。
「…あ〜、ひめのん、アレ読まなかったのか?」
とうとう決心すると、明神は触れるのが怖かった部分に触れる。
姫乃が目線をさっと伏せる。
「親父さんからだろ?…オレ、何かよくわからねえけど、これっていい事じゃないのかな…。」
姫乃が父親の事を良く思っていない事は今まで聞いた姫乃の言葉や口調でわかってはいた。
けれど、こうやって手紙が来た事は余計なおせっかいとは思いながらも、何かしらいい方向へ向かってくれないかと明神は思う。
「ひめのんの事、何だかんだで気にしてたって…。」
「今更。」
明神の言葉を切って、姫乃がポツリとつぶやいた。
普段の姫乃からは想像もつかない、暗く重い声。
「…ひめのん。」
窓に背を向けてぽつんと立っている姫乃に一歩づつ近づく明神。
姫乃は目を伏せ、拳をきつく握り締め、唇を噛んでいる。
側に寄り手の届く所まで来ると、ゆっくりと表情のなくなった姫乃の頬へ手を伸ばす。
手が頬へ触れると、むにむにと軽くつねってみる。
反応がなく、姫乃がそのまま黙っているのでもう片方の手でも頬をつねる。
「…もう!!何!!」
しつこくしつこく触っていると、ついに姫乃が怒り出した。
「ごめんごめん。…オレ慰めるのとか下手で。」
「どうして慰めようとして頬っぺたつねるの!!」
「何かこう、和まないかなあって。」
「和まない!!」
言い切って、ぜいはあと肩で息をする。
「…こうやって、うやむやにしようなんて、やめてよ。」
「…悪かった。」
思った以上に姫乃の父親に対する気持ちは根が深いもので、自分ではどうしようもないと思うけれど。
(笑って欲しいもんなあ。)
姫乃には、いつも明るく笑っていてほしい。
我儘だとは思うけれど、誰かを恨む様な生き方をして欲しくない。
はあ、とため息を吐くと覚悟を決める明神。
「何か理由があったのかもしれないし、読んだ方がいいよ。他愛のない内容かもしれないけどさ。」
「…明神さんには関係ないよ。」
「ある。」
「ないよ。」
「ある。」
「ない。」
「ある。オレがひめのんと関係したいと思ってるからある。あるったらある。」
姫乃がずっと伏せていた顔をゆっくり上げる。
二人の目線が合う。
明神は一歩も引かない。
「…どうして?放っておいてよ!こんなの、今更手紙なんて、困るだけだ!何が書いてあるかわからないけど、何でもない内容ならそれで傷付くし、今まで放っておいた理由が書いてあったって、今更、体のいい言い訳だって思っちゃうよ!読んでも読まなくても、一緒だよ。私がこうやって、こんなどうしていいかわかんない気持ちにさせられたって事は変わらないよ。」
「それでも。」
姫乃の肩をつかみ、目を覗き込む明神。
「そんでも、ひめのんの親父さんは生きてる。オレはそれが羨ましい。」
「…私が我儘だって言いたいの?」
姫乃の声が震える。
目にじわりと涙が浮かぶ。
泣かせたい訳ではないけれど、これか生きていく先で、姫乃が何度も何度もこの父親との事で目を伏せ、口を噤む事になるのが嫌だった。
「そうじゃないよ。ただ、オレは親父もお袋もいないから。」
「あんな人、いない方がいいよ。」
ぺちん。
軽い音がした。
姫乃の頬を明神が両方の手で挟む様に軽く叩いた。
そのまま、ごつんと額と額をぶつける。
「…ごめんなさい。」
ポトポトと涙が落ちる。
立ち尽くしたままの姫乃の背中をポンポンと叩いて抱きしめる。
「…こんなときくらい、ふりでもいいからやさしくしてくれてもいいのに。」
「優しくは、してますよ。」
姫乃の手が震えながら明神の背中へ伸びる。
「明神さんだけは私の味方でいてよ。」
「オレはいつでもひめのんの味方です。」
背中へと伸びた手が、黒のパーカーを握り締める。
「嘘でもいいからっ、あんなのほっときゃいいとか言ってよ。」
「オレの嘘は直ぐバレる。」
ゴンゴンと、頭を明神の胸にぶつける。
「…嫌い。大っきらい。お父さんも、明神さんも嫌い。」
「…すぐにばれる嘘は良くない。」
「嘘じゃないもん。」
「だって、手ぇ離さないだろ?手紙も握り潰しても捨てる事はできなかった。違うか?」
明神の背中を捕まえる姫乃の手は、しっかりとパーカーを掴んだまま離れない。
「…ひとりぼっちは嫌だもの。」
「一人なんかにしません。絶対に。」
「今は私を慰め言ってるの?」
「オレはそんな器用じゃないから、思った事しか言わねえし、しない。嘘もフリも苦手。」
「そんなの、わかってるけど…。」
「本当に親父さんが酷いヤツだったら、オレが怒ってやるよ。な?今すぐ好きになれとか言ってないだろ?ただ、いつか後悔したり、ずっと辛い想いを抱えたまんまでいて欲しくないんだ。きっと、ひめのんがオレなら同じ事言うと思う。正しい、間違ってるとかじゃない。そうだろ?」
姫乃は明神にしがみついたまま黙っている。
明神の言っている事もわかるけれど、感情がついてこない。
頭の中に浮かぶのは、母と二人きりの生活と、母が死んでしまった時の孤独。
辛いと感じた時、いて欲しいと願った時に側に居てくれなかった全ての時間に対しての「どうして?」という気持ち。
それら全てがギュウギュウと姫乃の胸を締め付ける。
その息苦しさから開放されたくて、姫乃は更に力を込めて明神にしがみつく。
背中を、頭を撫でる手から伝わる暖かさをもっともっと欲しいと思った。
まだ父親がどんな人で、何を考えているのかを知る勇気がない。
期待して裏切られるのが最も恐ろしい。
長い間、そのまま二人は抱きしめあったまま立ち尽くしていた。
明神は姫乃を根気強く待ち続ける。
答えを出すのは姫乃だから。
どの位時間が経った後か、ゆっくりと姫乃が顔をあげた。
「…手紙、今はまだ怖くて読めないから、読みたくなったら明神さん呼ぶね。」
「うん。」
「怖いから、明神さんが読んでね。私聞くから。」
「ああ。いいよ。」
「その時は…手を繋いでいてね。」
「わかった。」
「約束だからね。絶対だからね。」
「誓うよ。絶対だ。」
小指を絡ませ、指きりげんまん。
嘘吐いたら、夕食抜き。
ぐう、とタイミング良く明神の腹が鳴る。
「…。」
「…。」
「…昼から、何も食べず。水も飲まず…。」
「何か食べたらいいじゃない〜!!」
「カップ麺は食べたらひめのん怒るから…。」
腹の虫が鳴った事によって飢えと乾きを思い出す明神。
この部屋に来たのも姫乃を心配して、という理由が一番だけれど夕飯の催促もと考えていた。
ガクリと膝をつく明神。
姫乃が時計を見るともう7時過ぎ。
「直ぐ準備するから!ちょっと待ってて!あ。まず着替えちゃうし。」
「わかった…。お願い。」
よろよろと立ち上がると部屋を出る明神。
その背中を見送ると、はああと深く深くため息をつく。
机の上で潰れている手紙を手に取ると、クシャクシャになった皺を撫でて伸ばした。
見慣れない文字をじっと眺める。
自分の名前をそっと指でなぞる。
これを書いた父は、どんな気持ちでこの名前を綴ったんだろう。
今はどんな気持ちで生活しているんだろう。
それを知った時、自分はどんな気持ちになるんだろう。
ぶるりと身震いしてその手紙を引き出しへ入れる。
「まだ、無理みたいだよ。お父さん。」
急に、いつも暮らしているこの部屋がとても広く、寂しいものの様に感じられた。
姫乃は急いで着替えると明神の元へと逃げる様に部屋を飛び出した。
あとがき
父親設定が全く出てこなかったので、一体どういう人なんだろうとか想像しては全く浮かばないのですが…。
この話は雪乃さん救出前、という事でまだ余裕のないひめのんです。ちょっと迷走気味です(汗)
雪乃さんがそんな変な人を選ぶ訳はないと思うので何か理由があって側にいれなかっただけならいいなあ〜…。
1巻を見ると姫乃は父親と母親は仲が良くなかったとか言ってますが…。ここ知りたかった!!
2007.01.20