WOLF
and SHEEP
しろいおおかみはうそをつく
姫乃が眠れない夜を過ごした次の日、あれだけ怖い思いをしたのだから姫乃がまた群れを抜け出すなんて、エージは思いもしませんでした。
姫乃がいなくなった事に気が付いたのは、ご飯の時間、草原へ移動中に姫乃が群れをそっと離れてから随分時間が経った後でした。
「あんの、馬鹿!」
一声吠えて、他の仲間に群れを任せると、エージは昨日姫乃を見つけた森に向かって走り出しました。
一方姫乃は、無事冬悟と再会を果たし、ホッとしているところでした。
昨日エージが冬悟を襲った事を、何度も何度も謝りましたが、冬悟はそれに笑って応えます。
「まあ、オレは狼だから、あの犬のした事は正しいよ。いい奴がいるんだな、すっげー心配してくれて。何だか悪かったよ。」
姫乃は、エージを褒められて嬉しいと思う反面、悪かったとまで思ってしまう冬悟の事が寂しくて切なくて何とも言えない気持ちになってしまいました。
「冬悟は勘違いされるの、嫌じゃない?」
そう聞くと、冬悟は何も言わず、少し寂しそうに微笑むのでした。
「今日はちょっと早めに群れを抜け出したから、お日様が傾くまで時間が長いね。」
二人はせっかく会えたのだから、楽しく過ごそうと決めました。
森の中を散歩して、川に沿って歩いて泉を目指し、それから丘へと移動してご飯を食べます。
冬悟は「オレはもう食ってきたから腹一杯!」と言って、姫乃が草を美味しそうに食べている間は昼寝をします。
一緒にいる時間を眠って消費してしまうのはとても勿体無い事ですが、今日はこの贅沢な時間の過ごし方も楽しく思えました。
誰かと一緒にいる時に、こんな風に無防備に眠る事なんて、冬悟には滅多に無い事です。
眠る冬悟の耳に聞こえるのは、風の音と、風に吹かれる草が揺れる音。
それから、姫乃の首にかかった鈴がコロンコロンと鳴る音です。
その音を聞いていると、何だか安心して眠っていられるのです。
昼食と昼寝をそれぞれ終えると「エージがカンカンになって怒ってるだろうから」と、二匹は色んな場所を転々と移動して歩きました。
ゆっくり歩き、景色を眺め、色んな事を話しながら。
その内、いつか狼も羊も関係なく、ただ冬悟と姫乃が仲良く暮らせる日がくればいいな、という話になりました。
群れをこっそり抜け出して、限られた時間で慌てて会って、また次会える事を祈る日々に、少しじれったさを覚える様になってきたのです。
今日は長い時間一緒にいられるので尚更です。
「もしオレが羊だったら。」
「もし私が狼だったら。」
もっと一緒にいられるのにねえ。
二匹はそう言い合って、少し寂しそうに笑い合いました。
「ねえ、じゃあ冬悟!狼の群れを抜けて、牧場で暮らさない?」
森の中、川沿いに歩き、泉にたどり着いた時、姫乃が思いつき、あっと叫びました。
姫乃には、狼と犬はとても良く似て見えています。
冬悟がエージ達と一緒に仕事をする事になれば、ずっと一緒にいられるし、誰にも何も言われないと思ったのです。
「羊は皆白いし、エージは黒いけど、他の犬で白いコいるよ。牧場なら、冬悟は誰にも何も言われないよ!」
本当に良い思いつきだと姫乃は思い、息を吸う事を忘れる位の勢いで冬悟に言いました。
けれど、冬悟は首を縦には振りません。
「無理だよ。先ず人間がオレを見たら直ぐ銃用意するだろうし、オレ、今まで何度も牧場を襲ってるから、きっと無理だ。」
「あ…。」
姫乃は俯いて、考えます。
無理と言われても、冬悟と当たり前の様に一緒にいられたらいい、群の中にいるのに一人ぼっちなら、群れから出られたらいいのに、と必死で考えます。
どれだけ考えても、どれだけ悩んでも、良い案は一つも浮かびません。
冬悟も同じ事を考えていました。
考えても仕方が無いのに、考えずにはいられないのです。
そして、あんまり考え込んでいた為に、冬悟は普段なら絶対に気付く事に気付けませんでした。
それに気が付いたのは、背後の草むらが揺れ、大きな塊が飛び掛って来た時でした。
狼だ!
気付いて反応するまでに数秒、かかりました。
狼の狙いは、冬悟の隣で固まっている姫乃です。
冬悟は身をよじって姫乃を庇いました。
姫乃に振るわれた爪を、体当たりをして逸らすと、冬悟は体を低く構えて威嚇の唸り声をあげました。
相手は、同じ群れの灰色狼。
いつも何かと冬悟に突っかかってくる、冬悟とは仲の悪い狼です。
冬悟が直ぐに判断した事は、この一匹が居るという事は、この狼がいつもつるんでいる他の三匹の狼も直ぐ側にいるという事と、他に三匹いるという事は、今姫乃が自分の側を離れると危険という事です。
驚いたのは、その灰色狼でした。
確かに、冬悟の側にいる羊を横取りしてやろうとは思いましたが、まさかその羊を庇い、牙をむいてくるとは思っていません。
餌を横取りされる事を怒っているのかと始めは思いましたが、それも違う様子です。
「冬悟…お前、何やってんだ?」
「さあな。」
この事について、多くを語るつもりは冬悟にはさらさらありません。
言っても理解出来であろう事は、自分でも良くわかっているからです。
灰色狼は遠吠えをしました。
良く響く狼の遠吠えは、仲間を呼ぶ時に使う物です。
もう時間が無いと、冬悟は判断しました。
怯える姫乃を背後に庇いながら、遠吠えを終えた灰色狼に飛び掛り、牙でねじ伏せます。
暴れて逃れようとする灰色狼と、それを力づくで押さえ込む冬悟。
「冬悟!どういうつもりだ!!群れを裏切るつもりか!?」
「ああ。もう、戻らない。」
灰色狼が動けなくなる程噛み付き傷を負わせると、冬悟はスクと立ち上がりました。
口元の血を拭って姫乃に手を伸ばします。
「牧場まで送ってく。今日はここまでみたいだな。」
姫乃は、あんまり恐ろしくて、驚いて、差し出された手を、思わず取る事が出来ませんでした。
一瞬冬悟が物凄く悲しそうな顔をした時、姫乃はその事に気が付いてハッとしたのですが、もう冬悟は歩き出していました。
ああ、私は間違えた!
姫乃が慌てて後を追うと、冬悟は何も言わず、道無き道を先導します。
「冬悟、あの、あのね。」
「いいよ、大丈夫。」
冬悟は、全身の神経をこの森の周りに張り巡らせて集中していました。
冬悟が狩りが上手な理由は、二つあります。
一つは、足がとても速い事。
もう一つは、視野がとても広い事です。
とは言っても、実際に見える範囲が広い訳ではありません。
普段群れで狩りをしている灰色狼達は、群れの中の司令塔であるリーダーの指示に従って狩りをします。
リーダーが頭だとすると、灰色狼達は手足です。
冬悟は、普段から一人で狩りをしていました。
だから、冬悟は一人で頭の役割も手足の役割も果たせるのです。
群れで狩りをする時、良く冬悟は命令に反した動きをする事がありましたが、それは視界の隅に引っ掛かった「見落とした獲物」を捉える事が出来るからで、その為他の狼達より沢山の成果を出す事が出来ました。
だから、リーダーである狼も、得に冬悟の単独行動を諌める事は無かったのです。
冬悟は今、その狩りで培った感覚をフルに活用して、狼達の動きを探っていました。
あの場所には、直ぐに他の三匹が駆けつけるだろうと冬悟は予想します。
一応仲間であった相手だった事と姫乃の手前、殺す事は出来なかった為誰にやられたのかはあの狼から直ぐにばれてしまう。
今すぐあの三匹で探しに来るか、それとも一旦群れに戻って仲間を呼んでくるか。
すぐに三匹で探しに来るだろうと、冬悟は予測しました。
あの狼達の性格と、三対一であるという事がその根拠です。
実際、冬悟は三対一でまともに戦っては勝算がありません。
それだけ数に差があると、不利になってしまうものなのです。
姫乃が一緒にいるのならば、尚更です。
三方に囲まれた場合、姫乃を庇いながら戦う事はほぼ不可能だからです。
幸い、今この森の中には姫乃を探しているであろうエージが居ます。
最悪牧場にたどり着けなくても、エージと合流する事が出来れば何とかなるかも知れない。
冬悟は、歯噛みしながら頭を巡らせました。
もう群れに戻れなくても、最悪死んでしまっても、この友人だけは守りたいと。
「ねえ、ねえ!」
姫乃が呼ぶのに、冬悟はなかなか気付きませんでした。
「ねえってば!」
強く引っ張られて、冬悟は姫乃の方を振り返ります。
「どうした?」
「冬悟、怪我してる。」
言われて、冬悟は自分が怪我をしている事に初めて気が付きました。
あの狼から姫乃を守った時に負った怪我ですが、あまりに焦っていて気付かなかったのです。
心配そうな姫乃に、冬悟は笑ってみせます。
「大丈夫。狼って羊と違って丈夫だから、こんくらいじゃ痛くもねーよ。体のつくりが違うんだ。」
傷を負った前足をひらひらさせてみましたが、姫乃は冬悟を泣きそうな顔で見つめたまま、動こうとしません。
「姫乃、早く行かないと。あいつの仲間が追ってくる。」
「冬悟。」
行こうとした冬悟を、姫乃は捕まえて引き止めました。
「?どうした?」
「冬悟、ありがとう。」
「おう。だから、行くぞ。」
「冬悟、このままじゃ、どこにも戻れないよね。私を牧場に送った後、冬悟きっと、どこにも行けないよね。」
冬悟は少し、考えました。
これからどうするか、もう冬悟には先がありません。
姫乃を無事牧場に送ったら、後は今上手く逃れたとしても、必ず他の狼達に追われる事になります。
それから一匹でずっと逃げて逃げて、一体どこへ行くのでしょう。
この真っ白の姿では、きっとどこの群れへ行っても同じ様な事になるでしょうし、今一番この辺りで勢力が大きいのは灰色狼の群れです。
そこを抜けてきた厄介者を、すんなり群れへ入れるとはまず考えられません。
「…どこか、遠くへ行くよ。大丈夫、オレ足は速いから。それに灰色狼の群れを出ても、近くに茶色狼の群れだってある。行くあてはあるよ。」
「冬悟、私を食べたらいいよ。」
「え?」
姫乃は、冬悟の両方の前足をしっかりと捕まえました。
「冬悟、私を食べたらいい。私に命かけてくれてありがとう。だから、約束通り、私も冬悟に命かけるね。冬悟は私を食べて、あの狼達には餌を取られそうになったから怒ったんだって言えばいいの。怪我をさせた事は謝って、群れに戻って。ね。ね。」
冬悟は驚きの余り声も出ません。
姫乃は、必死で冬悟に訴えます。
「私に出来る事、何も無いと思ったけどあって良かった。足の遅い私がいたら、絶対捕まっちゃうでしょ?きっと牧場にも行けないよ。ほら、私音がする鈴がついてるもん。絶対にわかっちゃう。ね。冬悟、狼は嘘吐くのが上手いんでしょう?だから、冬悟。あの狼達に嘘を言って。あの羊はもともと食べようと思ってたんだって。」
冬悟は、喉が震えるのが自分でもわかりました。
「駄目だよ。オレ、羊、嫌いなんだ。食えないんだ。」
「冬悟。」
「それに、オレ今お腹一杯で、何も食えないよ。」
「冬悟聞いて。」
「駄目だよ。オレ、今耳が聞こえない。」
冬悟はか細い声で、必死で姫乃の言葉を止めようとします。
けれど、姫乃も震えながら、訴える事を止めません。
「大丈夫!冬悟は狩りが上手いんでしょ?狼達だって、冬悟がいた方が本当はいいんでしょ?上手くいくよ。絶対!ね?」
姫乃は精一杯笑いました。
冬悟の前足をしっかりと握り、縦に大きく振りました。
「…ありがとう。」
冬悟は、自分の声がこんなに擦れて細い声になっている事に、自分で驚きました。
冬悟は、もう決めました。
多分始めから、こうするのが一番だったんだと信じて。
「いいの。さっきね、冬悟の事、ちょっとだけ怖いって思っちゃったの。それがどうしても、どうしても許せないの。友達なのに。」
「ああ、いいよ。仕方が無い。オレは狼だから。姫乃は羊だしな。」
「うん。だから、あんまり、怖く無い様にしてね。ガブッと飲み込んで。」
「わかった。」
「痛いの、怖いけど、冬悟、私冬悟に溶けて、ずっと一緒にいるね。ああでも、最期だけど、冬悟、せめて美味しかったらいいね。私、美味しかったらいいねえ。」
「ああ、きっと、多分今までで一番美味いよ。」
「じゃあ、冬悟、ありがとう。本当に。ごめんね。ありがとう。」
姫乃は瞳を、ぎゅうと硬く閉じました。
痛いのは、我慢しよう、出来れば痛い!と言わずに済む様にしたくて、口もぎゅっと閉じました。
気がつくと、冬悟はボロボロと涙を流していました。
もし生まれ変わる事が出来るなら羊がいいと思いました。
そうしたら、こんな気持ちになる事は無かったのに。
「さよなら、姫乃。」
冬悟は姫乃の首筋に、牙を当てました。
あとがき
一気に重い話になりました。題三話。
本当はこの話は二つに分けて、後半は違う話にしようかとも思ったのですが、一つにしました。一気に転換…早い!
2007.09.24