WOLF and SHEEP

おさないひつじはおおかみをしる

あれから数日が経ち、怪我がすっかり良くなった二匹は、殆ど毎日会う様になりました。

姫乃はご飯の時間になると、エージ達牧羊犬の目を盗んでこっそりと草原を抜け出します。

首にかけられた鈴が音を出さない様に、そっと前足で押さえて、息を止めて、草むらや森まで一気に走ります。

時々、隠れる前に見つかって、抜け出す事が出来ない事もありましたが、そんな時は近くの森で姫乃の様子を窺っている筈の冬悟に向けて、二度、鳴きます。

これは「今日は無理でした、ごめんなさい」の合図で、その合図を聞くと、冬悟は小高い丘まで走り、しょんぼりと群れに戻される姫乃に向かって一度、遠吠えをします。

これは「わかった。じゃあまた明日」の合図です。

姫乃と冬悟は、二匹だけの決め事を沢山作りました。

何せ羊と狼です。

二匹が友達だと言っても、きっと誰もわかってくれはしません。

白い狼の冬悟は、牧場の中でも有名な、恐ろしい狼だったからというのもあります。

冬悟の遠吠えを聞きながら、牧羊犬のエージは耳をピン、と立ててそちらを睨みつける様にします。

最近、近くに狼がよく来るなあ、とエージは呟きました。

そんな訳で、もしかしたら大規模な狩りがそろそろあるのかもしれない、と牧場に緊張した空気が流れました。

その中で、姫乃だけはいつも通りのんびりと過ごしています。

ご飯の時間の、ちょっとしたかくれんぼを除いたら。

一方、冬悟の毎日はぐるりと変わりました。

いつもは気が向いた時にぶらりと森へ出かけ、狩りをして暮らしていたのですが、今は朝起きれば直ぐにでも森へ向かい、狩りをします。

姫乃と会う前にできればお腹一杯にしておきたかったからです。

いくら友達になっても、大事な存在になっても、冬悟は狼、そして姫乃は狼から見れば美味しそうな羊です。

もしお腹が空いている時に会ってしまったら、食べたいと思ってしまうのです。

冬悟はそれが嫌で、色んな方法を試してみました。

目を閉じて、声だけ聞いていてみましたが、声は羊のか細い声なので、お腹が空いていると「食べて食べて」と聞こえてきます。

更には匂いも美味しい匂いがするので、目を閉じながら鼻も塞がなくてはいけません。

これではまともに会話が出来ません。

姫乃はそんな冬悟を可笑しそうに笑いましたが、冬悟にとっては死活問題でした。

昼、姫乃達が外に出る時間までに、森でうさぎやネズミを捕まえて食べ、姫乃が怖がるといけないので森の中の泉で綺麗に血を洗い流します。

昔は泉に映る自分の白い姿を見るのが嫌で、泉に近づこうともしませんでしたが、姫乃と同じ白色だと思えばあまり嫌だと思わなくなりました。

冬悟と姫乃は、二匹で丘を登り、そこで姫乃は毎日ご飯を食べました。

とても楽しい、幸せな日々ですが、冬悟には少し心配な事がありました。

それは、二人が初めて待ち合わせをした時にも感じた事ですが、姫乃は狼をあまり怖がらないのです。

初めて待ち合わせをして会った時、冬悟は本当に姫乃が来るのかどうか不安で仕方がなかったのですが、コロンコロンカランと鈴の音がした時は本当に飛び上がる位喜びました。

そして同時に、本当に狼の事を知らないのだなと思ったのです。

もしこれが狼の吐いた嘘なら、姫乃はバクリと食べられています。

そして狼は、そんな嘘を吐くものなのです。

二匹は再会して、まず自己紹介をしました。

初めて会った時、うっかり名前を教え合うのを忘れていたのです。

二匹はお互いの姿を確認した時、相手を何て呼んでいいかわからず。

「狼さん。」

「羊。」

と呼び合って、可笑しくて笑いました。

そして、それから冬悟は姫乃に、狼の事を沢山教えました。

「いいか、姫乃。狼ってのはオレみたいな変わり者の狼もいるけど、殆ど99%悪い狼だと思った方がいい。オレ以外の狼に会ったら直ぐに逃げるんだぞ。」

そう言うと、姫乃はにこにこしながら「はあい」と元気良く答えます。

「姫乃、本っ当にわかってるか?」

「わかってるって。狼を見たら逃げる!エージがいつも言ってるもん。狼は怖いんだぞーって。でも冬悟さん見てたらそんなに怖くないんだもん。」

確かに、自分がいかに説得力の無い事を言っているのかも良くわかっていました。

狼に襲撃される事をまだ経験していない姫乃には、難しい事です。

冬悟ははあ、とため息を吐きました。

「まあ、逃げるってのだけしっかり覚えといて。後、冬悟さんってやめろよ。冬悟でいいよ冬悟で。」

「冬悟……さん。」

年上で、大きな狼に姫乃はどうしても呼び捨てにする事が出来ずにいました。

エージは年上ですが、兄みたいなものなので、エージと呼んでいます。

その他の、年上の羊達や、山羊や、にわとり達にだって、生まれたばかりの姫乃は皆、さんを付けて呼んでいます。

「友達だろ?オレだって姫乃って言ってんだ。姫乃も冬悟って呼ばなきゃ駄目だ。」

「……うん。じゃあ、冬悟。」

これが、再会して五日目の事でした。







姫乃は森から帰ると毎日エージに叱られました。

それもそうです。

最近ちょくちょく狼の遠吠えが近くで聞こえるというのに、一匹で森へ入ってしまうのですから。

姫乃は叱られながら、うっかり口を滑らせて「いい狼もいるんだよ!」と、言いそうになるのを何度も我慢しました。

あんまりエージが狼を悪く言うので、腹が立つ事もありました。

それでもじっと、冬悟の言いつけを守り、明日また会う為に黙っていました。

けれどある日、姫乃はエージの口から、びっくりする言葉を聞きました。

「姫乃、あの岩だらけの谷に灰色狼達が住んでるって教えたよな。」

「うん、聞いたよ。」

「あそこには白い悪魔って呼ばれてる狼がいるんだ。」

「白い、悪魔?」

姫乃は丸い目を更にまん丸にしてエージを見ました。

白い狼は、一匹だけ知っています。

「ああ、そこにやたらと足の速ぇ狼がいてな、足が速いだけじゃなくて、ムカつくけど腕もいい。あいつが来ると、何匹かは絶対にもってかれちまう。そんな怖い、化け物みたいな狼もいるんだ。森の中で出会ったら、姫乃なんか逃げても直ぐに捕まっちまうぞ。」

「その狼は、エージより早いの?」

「悔しいけど。」

エージが本当に悔しそうに言い、姫乃は不安になりました。

「その狼って、白い色?」

「ん?白い奴。直ぐにわかるよ。灰色狼達の群れに、一匹だけ混ざってやがるから。だから、オレ達は白い悪魔って呼んでるんだ。」

一匹だけ。

姫乃はその言葉で心臓が止まってしまうかと思いました。

「気になるか?怖くなったか?怖かったら次から群れを抜けない事!いいか?」

「う、うん…。」

一応返事をして、姫乃は色んな事をぐるぐる考えました。

もし、冬悟がエージの言う恐ろしい狼なら、姫乃はとっくに食べられている筈だから、そんな事は無いと考えます。

けれど、灰色狼の群れには白い狼は一匹しかいないとエージは言うのです。

もしかしたら、冬悟は違う群れの狼かも、と考えてみましたが、いつも待ち合わせるのは「オレの群れからちょっと離れてて、姫乃の群れに少し近い方が安全だ」という理由で牧場から少し離れた森の中です。

そして森に一番近い群れが住む谷は、灰色狼達の群れが住んでいる所です。

姫乃は一晩中、考えました。





次の日。

お昼になった姫乃はエージの目を盗んでこっそり森へ向かいました。

昨日あれだけ怖がる顔をしていたので、エージも少し油断していたので、今日はすんなりと抜け出す事が出来ました。

朝になっても昼になっても疑問は解決しないまま、姫乃は待ち合わせの場所で、コロン、コロン、コロンと鈴を鳴らしました。

暫くして、白い狼が草を掻き分けて現れました。

そして嬉しそうに、犬のエージがする様に姫乃の頬に鼻先を摺り寄せました。

その時姫乃は「やっぱり違う、そんな筈はない!」と強く思い、思い切って冬悟に聞く事にしました。

「ねえ、冬悟。冬悟は羊を食べた事、ある?」

突然聞かれ、冬悟はパクっと口を開き、そのまま暫く止まりました。

「やっぱり、ある?かな。」

「い、いや、無い!ひつじは食ったコトねえ!」

「ホント?」

首にぶら下がった鈴をコロンと鳴らしながら、姫乃が首をかしげて問いかけます。

冬悟はこの質問に、本当は自信を持って「無い!」と言いたかったのですが、悲しい事に羊は何度も食べた事があります。

何度も食べた事があるというよりは、大好物です。

嘘を吐いて、誤魔化す事は出来ますが、冬悟は姫乃を見ていると嘘を吐くのが嫌になりました。

「う…い、一回、だけ。いや、二回……五回、位。」

「五回?」

冬悟はぶはあと息を吐きました。

「…ゴメン。多分、もっと。でも!姫乃と会ってからは一回も食ってないし、多分、絶対、これからはずっと……食わない。」

謝る様な、懇願する様な顔で、冬悟は言いました。

姫乃はその冬悟を見つめます。

「私、美味しそうに見える?」

冬悟は、一切の嘘を止めました。

「見える。けど、食わない。食ったらオレ、また一匹になっちまう。」

美味しそうに見えるという事には少し、ほんの少し驚きましたが、それ以上に本当の事を全部言ってくれた事が嬉しくて、姫乃はこの白い狼の事を、全部信じる事にしました。

そして、嘘を吐かずに全部答えてくれた冬悟に、姫乃も応えようと思いました。

「じゃあ、もし冬悟がお腹が減って死にそうになったら、その時は私を食べていいからね。他の羊を食べるくらいなら、私を食べてね。」

姫乃が約束、と前足を差し出しました。

冬悟は姫乃の血の味を知っています。

それがどれだけ美味しいか、知っています。

どうして狼なんかに生まれてきたのか、白い色で生まれたのなら、いっそ羊に生まれてくればよかったのに。

そんな事を考えながら、冬悟は涙が出そうになるのをぐっと我慢します。

我慢しながら、差し出した姫乃の軟らかい前足を、そっと掴みました。

「冬悟も、ご飯食べないと死んじゃうもんね。」

「ああ。」

「私も、草を食べるしねえ。」

「オレも、草食えたらいいのに。」

冬悟も、羊みたいに草を食べれないかと試した事がありました。

姫乃があまりに美味しそうに草を食べるので、試しに食べてみたのですが。

草は、筋ばかりでパサパサするし、味は悪いし何より酷い吐き気がして、まともに食べられる物ではありませんでした。

ゲホゲホと咽る冬悟の背中を姫乃が慌てて撫でてやり、冬悟はその時無性に恥ずかしい気持ちになった事を良く覚えています。

二匹は今日、とても大事な約束をしました。

お互いに何かあったら、お互いが出来る形で相手を助ける事。

命をかけて、助ける事。

そしてそれよりもっと大事な約束もしました。

それは、ずっと友達でいるという事。

それこそ、何があっても。

「じゃあ冬悟、私そろそろ戻るね。」

羊の群れが移動を開始しだした頃、姫乃はすくと立ち上がりました。

「ああ、じゃあ近くまで送るよ。」

二匹は森の出口まで向かい、そこで立ち止まりました。

「明日も、会えるよね?」

姫乃が言い。

「ああ。いつもの時間に、いつもの合図で。」

冬悟が笑いました。

その時。

二匹の間を割って、一匹の黒い影が物凄い勢いで突っ込んできました。

「わあ!」

勢いに押され、ころんと姫乃が転がります。

「姫乃、逃げろ!!」

その言葉は飛び込んで来た黒い影から聞こえ、姫乃は慌てて体を起こしました。

黒い影は、姫乃を探し回っていたエージでした。

姫乃の首にぶら下がっている鈴の音と匂いを頼りに姫乃をとうとう見つけだしたのです。

エージは姫乃を背後において、冬悟を威嚇します。

低く構え、ううゥ、と唸り声を上げて体中の毛を逆立てます。

それでも自分より一回り大きな狼を、エージは怯む事無く睨みつけました。

「この野郎、姫乃に何しやがる!」

エージが叫び、飛び掛ります。

「エージ!駄目!」

冬悟はエージの牙をひらりとかわし、跳ねる様に回り込もうとしました。

エージは背後に庇った姫乃にぴたりと張り付き、姫乃を点として、移動する冬悟を円を描きながら睨みつけます。

そして、大きな遠吠えで仲間を呼びました。

「エージ、エージ!」

姫乃はエージにしがみついて止めようとしましたが、エージはおびえた姫乃がすがりついているものだと勘違いしました。

「大丈夫だ。オレが守ってやるから。」

「そうだ。そうやって、しっかり守ってろ。」

一言、冬悟はエージにそう言うと、くるりと踵を返して走り出しました。

仲間の牧羊犬達が駆けつけます。

走り出した冬悟には、誰も追いつけません。

あっという間に冬悟の姿は森の中に消え、どこに行ったのかわからなくなりました。

牧場へ戻った姫乃に、牧羊犬や羊達が「怖かったわね、もう大丈夫よ」「森なんかに行くからだ、気をつけなさい」と言いましたが、その言葉を聞く度に、姫乃はとても寂しい気持ちになりました。

夜になり、牧場の中から見える月を見上げながら、早く明日に、早く明日になって、と祈りました。

冬悟が寂しがっている気がして、心配で悲しくて仕方がありませんでした。


あとがき
二話目です。
頭の中では、後二話…ある感じです。
2007.08.30

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