さめざめと降る雨

「何でそういう風に取るの!」

「そういう言い方するからだろ!」

「してないよ!明神さんがそう思ってるからでしょ!?」

うたかた荘に、明神と姫乃の怒鳴り声が響き渡る。

喧嘩の現場は管理人室。

二人は睨み合って、口論を…というか、怒鳴り合っていた。

何が喧嘩の原因だったのか、そんな事すっかりどうでも良くなっていた。

普段なら話し合って解決できる、本当に些細な事だった。

喧嘩になってしまった事がおかしい位。

けれど間というか、タイミングというか、虫の居所が悪かったのか、とにかく二人の気持ちがすれ違って、この問題には関係のない、言わなくてもいいような事や普段我慢出来ている事まで言い出しあって、あれよあれよという間に大喧嘩になった。

こんな喧嘩、付き合いだしてから一度もしていない。

どちらかが冷静になればいいだけなのに。

それはきっと年上である明神の役だろうし、負けず嫌いな明神の性格を知り尽くしている姫乃の役目でもあった筈なのに。

売り言葉に買い言葉でお互い止める事が出来なくて。

「じゃあ、別れりゃいいだろ。」

フイと目を背け、ポロリと言ってしまったその言葉。

勿論、本心ではない。

勢いに任せて言った言葉。

「じゃあそうする!バイバイ!」

姫乃は長い髪を翻して管理人室を出て行った。

バン!と激しい音をたててドアが閉められ、足音はそのまま玄関へと向かい、消えた。

「…何なんだよ!」

吐き捨てる様に呟くと、明神は敷きっぱなしになっている布団にバタンと倒れこんだ。

倒れこんで、頭をガシガシ掻き毟ってゴロゴロ転がって、ガー!とかウガー!とかうめき声を上げ、最後には「ちくしょー!!」と叫ぶ。

手足をバタバタさせると床が軋んだけれど、むしろ抜けるなら抜けてしまえという勢いで床を踏みつけ、叩き付ける。

オレが悪いのか!?オレか!?姫乃も姫乃だろ!

別れりゃいいなんて、本心で言う訳ないだろ、間に受けやがって!

足元にあった棚を蹴ったらバラバラと本や巻物が落ちてきた。

構わずそれも蹴り散らかす。

散々暴れてため息を吐くと、ポツポツと音がして雨が降り始めた。

「…。」

泣いてんのか。

少し冷静になってきた頭で窓の外を眺める。

雨音は少しづつ大きく、激しくなっていく。

胸がギシギシした。

飛び出す姫乃の顔は見れなかった。

泣いていたのかもしれない。

雨音がやけに耳につく。

上半身を起こして雨の様子を眺める。

姫乃が帰ってくる気配はない。

どこかでこの雨を浴びているのか、急いで近くの店に飛び込んで雨宿りをしているのか。

「…くそ。」

振り払っても振り払っても脳裏に浮かぶのは姫乃の泣き顔で、それは多分この雨のせいだと思いながらそれでも窓から目を離す事が出来ない。

バイバイと言った姫乃の言葉が頭に浮かんで、強く頭を殴る。

本気で言った訳じゃあなかったのに。

重い体を立ち上がらせて、何度も何度も躊躇いながら管理人室のドアを開ける。

玄関へ向かい、靴を履く。

「…何でこんな事になってんだよ…。」

ざあざあ振り続ける雨に言ったのか、今のこの状況に対して言ったのか、明神本人にも良くわからない。

傘を持って走る事がうっとおしく感じて、明神はそのまま雨の中に飛び出した。

やみくもに走って姫乃を探す。

いつも一緒に歩く道や、よく待ち合わせに使う公園。

買い物に行くスーパー、寄り道する駄菓子屋。

どこだどこだ。

前髪からポタポタと雫が落ちる。

うっとおしくて掻き揚げる。

冷たい雨。

寒いんじゃないのか?

風邪ひかないか?

ちゃんと雨宿りしてるか?

今何処にいる?

何処で何してる?

「っだあああ!!」

怒りが雨で洗い流され、残ったのは不安と焦りと後悔。

走り回って学校まで行き、引き返す途中の公園。

ずぶ濡れで立ち尽くす姫乃の背中を発見した。

声をかけようとして、まだ怒っているかもしれない、酷い事を言ったし、と思って開いた口を噤む。

姫乃の背後、3メートルの位置で姫乃と同じく立ち尽くす明神。

「は、くしゅ!」

姫乃が小さくくしゃみをすると、明神は考えるより先に体が動いた。

着ていたコートを脱ぐと、頭から姫乃に被せる。

驚いて振り返った姫乃が泣いているのか、雨に濡れているだけなのか明神には判断がつかない。

濡れた姫乃の黒い髪は、姫乃の顔や肩にぺたりと張り付いている。

二人とも黙ったまま、暫く気まずい空気が流れる。

姫乃が何度目か明神を見上げると、ようやく口を開いた。

「…探してくれてたの?」

「まあ、そうだ。」

会ったらとにかく謝ろう、と思っていたのに。

姫乃の様子を伺ってしまう明神。

「雨の中傘もささずに?」

「仕方ねーだろ。走る時邪魔になっちまうんだから。」

姫乃が俯く。

「…馬鹿。風邪ひいたらどうするの。」

「馬鹿って、そりゃひめのんもだろ?この雨の中ブラブラして。」

また険悪になってしまいそうな空気が流れる。

どこかでどちらかが修正しないといけない。

それはどちらともがわかっている事だったけれど。

また暫く沈黙が続く。

「ふ、あっくしょい!!」

今度は明神が大きなくしゃみをした。

姫乃は慌てて自分に被せられたコートを明神にかけようとする。

明神はそれを拒否する。

「いいって。ひめのん被っとけ。」

「でも、明神さんも風邪ひいちゃうよ?」

「オレは…馬鹿だから風邪ひかねえ。」

「…あてつけ?」

「そうじゃなくて。」

明神は濡れた頭をぐしゃりと掻く。

それから、大きくため息を吐いて。

「帰るぞ。」

姫乃の手を強引に掴み、引っ張る。

姫乃は動かない。

「…ここにずっといても仕方ねえだろ?本当に風邪ひくぞ。」

「いいよ。」

「あのなあ。」

「明神さんと別れるなら、帰るとこないもん。」

俯く姫乃の手を、今度はもう少し強く引く。

姫乃の体がつんのめって傾いた。

「あんなの、本気で言ってる訳ねえだろ!」

強い口調で言った後、明神はしまったと思った。

もう喧嘩はするるもりはないのに。

また姫乃が言い返して、もう一度喧嘩になるかと思った時、姫乃が口を震わせながら明神を見た。

「でも私、バイバイって言っちゃった。あんなの、言うつもりなかったのに。何で言っちゃったんだろ。お別れの言葉なんて、言いたくなかったのに。」

姫乃はうたかた荘を出てからずっと、喧嘩した怒りより、別れの言葉を口に出してしまった悲しみが頭の中でぐるぐる回っていた。

雨が降りだし、空を見上げると真っ暗で、明神が怒っているのか、泣いているのか、そう想って悲しくて悲しくて仕方がなかった。

ボツボツと雨がコートにぶつかる。

姫乃の顔がくしゃりと歪む。

明神は、やっと姫乃が泣いてる事に気が付いた。

ずっと泣いていた事に気が付いた。

姫乃は両手で顔を押さえる。

ああ、しまった。

「オレが言わした。悪かった。オレもあんな事言うつもりなかった。」

言えなかった謝罪の言葉があっさりと明神の口から飛び出した。

怒る事だって謝る事だって、ちょっとした事がきっかけになるのに。

「だから、泣くな。」

姫乃が明神の胸に頭を押し付ける。

バサリとコートが落ちたけれど、明神もそれを拾う事はしなかった。

ちょっとでも、傘の代わりになってやろうと、少し上体を屈めて姫乃に覆いかぶさる様に抱きしめた。

姫乃が肩を震わせて泣く。

泣き声は雨音にかき消されて聞こえない。

ざあざあと雨音が響く。

明神にはこの雨音が姫乃の泣き声に聞こえた。

「ごめんなあ。ごめんなあ。」

姫乃に聞こえるか聞こえないかわからない位小さな声で謝り続ける。

早くこの雨が止む事を祈りながら。






雨が止み、姫乃も泣き止むと明神はずぶ濡れになったコートを拾い上げた。

雨と泥で重くなり、上着の役目を果たさなくなったそのコートは肩にかける。

無言で手を差し出すと、姫乃がそれを緩く握る。

その手をひいて、歩き出す。

靴の中がぐしゃぐしゃで、歩く度に音が鳴る。

雨で濡れた姫乃の手はひんやりと冷たかった。

うたかた荘に辿り着くと、急いで風呂を沸かし、遠慮する姫乃を先に入れる。

急いであがってきた姫乃に用意しておいたホットココアを手渡すと、湯上りで頬っぺたを赤くした姫乃が笑った。

続いて、明神が風呂に入る。

首までお湯に浸かり、目を閉じる。

水の音が反響して風呂場に響く。

雨音はもう聞こえない。

お湯をすくって顔を何度も何度も洗い流した。

急に眠気に襲われて目を閉じる。

そういえば、今日は朝方まで仕事をしていた。

このまま風呂で寝たら、また後で姫乃に小言を言われるのだろうなと思う。

風邪ひくよ、もっと気をつけないと。

そういえば喧嘩の始まりの大きなきっかけは、こんな小さなやりとりからだった気がする。

疲れていて、ちゃんと聞かずに適当に応対した。

鼻までお湯に潜り、プクプク泡をたてる。

あんなに、怒鳴り合う事なんかなかったのに。

風呂からあがると今度は姫乃がホットミルクを用意して待っていた。

中身をこぼさない様カップを両手で持って、明神に微笑みながら差し出す。

明神はそれを片手で受け取る。

「オレ、ひめのん駄目だったら、きっともう誰とも駄目だから。」

「ん?」

「だから、多分ひめのんしかいないから。」

「うん。私も。明神さんしかいない。」

夜になって、もう寝ようかと思い明神が管理人室に戻ると部屋が散乱していた。

昼間暴れた事を思い出してげんなりする。

良く見たら棚も足の形に壊れていて、修理をしないと片付けすらままならない。

とりあえず足元に散乱した本を積み上げ、入れられる物は押入れに詰め込む。

物音を聞きつけた姫乃が管理人室を覗く。

明神は咄嗟にへしゃげた棚を体で隠す。

目が合って、笑う姫乃が片付けを手伝いだす。

「…すみませんねえ。」

「いえいえ。」

「今日は違う部屋で寝るかな。」

「駄目だよ〜。管理人さんは管理人室にいないと。」

手を動かしながら、明神はポツリと呟いた。

「桶川さんの部屋に泊まりたいなあ。」

勿論、本気ではなくて、そうしたいなあ、程度の気持ちで。

姫乃は手を止め、ちょっとだけ首を傾げて。

「うーん。いいよ、一泊二日?」

ブッ、と明神が吹き出した。

その口をごしごしと拭いながら。

「えっと…。え、本気?あの、喧嘩したからって甘やかさない方がいいと思うよ?オレ。」

「いいよ。これじゃ本当に寝れないしね。床板も張り替えたら?ベコベコになってるし。」

本気で言った訳じゃあなかった。

あっさり受け入れられて動揺した。

「じゃあ、二泊三日で…。」

「わかった。じゃあ二泊三日ね。」

姫乃が指を二本立てる。

それをピースと勘違いして明神も笑いながらVサイン。

かみ合わない二人の笑い声が夜の管理人室に響いた。


あとがき
この二人が本気で喧嘩したらどうなるのかな〜と思って書きました。
オチが…。
2007.04.05

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