のぅ・すもーきんぐ

「あら、煙草のにおい」

雪乃が勇一郎と出合って数日後、結界を張った湟神家の寺の中で召集をかけた他の案内屋達の集合を待つ様に言われた雪乃は、様子を見に顔を出した勇一郎にそう言った。

やあ、と言いたかった勇一郎の口は開いたまま、手は挙げられたままピタリとその動きを止める。

「臭いっすか?」

皮のジャンバーを自分で嗅ぎながら勇一郎が問うと、雪乃はにこりと笑って頷いた。

「いい匂い、じゃあないわね」

「すんません。さっき外で吸ったから、臭いついて来たんだな……」

「初めて会った時も臭いがしてましたよ。毎日沢山吸っているの?」

うーんと唸り、勇一郎は腕を組んだ。

「減らそうと思ってるんすけどね……一日一箱……を、目指してるってとこかな」

「じゃあ沢山吸うのね。体に悪いんじゃないかしら」

「心には良かったりするんだけどなー」

「あら、物に頼らないといけない程弱い様には見えないわ」

「そりゃどうも。上手いね何とも……」

広い境内の縁側に腰をかけ、二人は中庭を眺めた。

雪乃の側に置かれた半分残して冷めてしまったお茶は、湟神一兆が淹れたものだろう。

風が吹き、庭の草木がかさかさと音をたてると雪乃は思い出した様にそのお茶を手にした。

「あ、明神さんも飲まれます?」

「やや、お構いなく。欲しけりゃ自分で用意するし、結構大変だろ?お腹」

雪乃は大きなお腹を抱えてよっこいしょ、と体勢を変えると、勇一郎と向かい合う様に座りなおした。

細い腕が大事そうにお腹を支え、多分無意識に、優しく撫でている。

勇一郎は妊婦と接するのはこれが始めてで、どうすれば雪乃が楽になるのか、またどこまでなら無理ではないのか勝手がわからずにいた。

「大丈夫よ。それに少しは動かないと、逆に良くないそうよ?」

「その少しってのがよくわかんねーんだよなァ……こん位って基準が」

「そうねえ……全力疾走は駄目だけど、散歩はした方がいいって位かしら……あ」

「ん?ど、どった?」

急に雪乃がお腹を押さえ、勇一郎はドキリとした。

今ここで「産まれる」何て言われてしまったら、パニックに陥る自信があった。

代わりに陰魄数十匹相手しろと言われたら、喜んで!と答えるだろう。

おろおろする勇一郎をよそに、雪乃は嬉しそうに微笑んだ。

「動いたの」

「お、お腹?痛いのか?」

「少し。コン、って蹴ったの。さっきまでじっとしてたのに……明神さんが来たら起きたのかもしれないわねえ」

「声がでかくてすいませんねえ」

「声かしら?たばこが臭いって言ってるのかも知れないわ」

そう言いながらくすくす笑う雪乃に対し、勇一郎は苦い顔をした。

遠まわしに「禁煙したら?」と勧めてくる。

「やあ、禁煙ねえ……出来るならしたいけど、なかなか難しい。あ、でも妊婦さんに会う前は吸うのやめにします。あんたおっかないから」

「あら女性に対しておっかない、だなんて酷いわね。ね〜そう思うよねぇ?」

雪乃はお腹に問いかける。

参ったな、と勇一郎は思った。

他人を煙に巻くのは得意だと思っていたのに、上にはまだ上がいる。

「あ、また動いた。……明神さん、触ってみます?」

雪乃の手が勇一郎の手に伸びた。

そっと触れられ、勇一郎は慌てて後ずさる。

「いやいや!!何か女性の体に触るのはどっちかってーと好きだけど、いやいやそうじゃなくて、オレが触ると胎教に悪い気が」

「この子、きっと明神さんを待ってるんだわ。撫でてあげて下さいな」

逃げる勇一郎に近づいて、雪乃は自分のお腹を勇一郎に触らせた。

焦っていた勇一郎だが雪乃に触れた途端、神妙な顔で黙り込んだ。

不思議な感じがした。

今まで触った事が無い感触がした。

女性の胸なら触った事もあるし、お腹だって自分のも他人のも触る事がある。

けれど、この丸く、大きなお腹だけは何かが違った。

暖かさが違う訳ではない。

少し張った様な、固い感じはするけれど、人の感触を逸脱している訳ではない。

それなのに、ただ中に人の命が入っているというだけなのに、何かが特別で、何かが違った。

「……あ」

「あ」

「……動いた」

「明神さんに、挨拶したのねぇ」

いいこいいこと、雪乃は褒める様に大きなお腹を撫でた。

確かに、内側から何かが勇一郎に触れてきた。

命の器。

大事な大事な、

「きっと、この子が産まれて来たら、私は二番目に、明神さんは三番目にこの子を抱っこするんだわ」

「一番目は旦那さん?」

暖かい気持ちで言った言葉に、雪乃はゆっくりと首を横に振った。

「一番目は、看護婦さんよ」

悪戯問題でした、と雪乃は笑う。

「いやいや、それは無いでしょ。一番目はまあ、看護婦さんとしても、二番目はあんたか桶川教授だろ。オレは……早くて四番目」

「私の勘、良く当たるのよ?」

大変な事を、簡単だと言う様に雪乃は言う。

顔は微笑んでいるけれど、どこか寂しそうで、でもきっぱりと何かを諦めてもいる潔さも感じられる。

悪く言えば完全に夫を信用していないという事になるけれど、勇一郎はそうは思いたくなかった。

今触れ合った、もう少しで産まれるこの子の側には雪乃ともう一人、ごく一般の、普通の暖かい家庭の様に父親がいて欲しいと思った。

「いや、勘とかじゃなくて……」

ボリボリと頭を掻く勇一郎に、雪乃は「ああ」と手を打った。

「じゃあ、賭けをしましょうか」

「賭け?」

「私の勘が当たったら、明神さんは煙草をやめる」

「あんたなあ」

「私の勘が外れたら……」

「……」

「一日一箱で我慢する」

「うへ。どっちにしろ減らすんだ」

「出来るならしたいんでしょう?禁煙」

雪乃はにこにこ笑ったままで、勇一郎は少し困った顔のままで「まあ、じゃあそうしますか」と、賭けが始まった。






産まれたばかりの赤ん坊の頭は、それを支える勇一郎の掌にすっぽりと収まる程小さかった。

始めまして、ああ、挨拶は一度したっけか。

わんわん泣いていた姫乃と名づけられた女の子は、勇一郎の手から雪乃の手へと戻ると落ち着いたのか、すうすうと眠りだした。

勇一郎はぼんやりと、その顔を眺めた。

見ているだけで心が少し温かく、柔らかくなってくる。

けれど同時に、複雑で胸が詰まる気持ちにも襲われる。

父親の気持ちとはこういうものかと考えた。

賭けは私の勝ちねと雪乃が微笑んだ。

その雪乃の代わりだろうか、勇一郎は無性に泣きたくなった。


あとがき
他の話を頭の中でこちゃこちゃ作ってる時に、ぽこっと産まれた話です。
昔の話以外で煙草を吸ってるシーンがなかったので、いつやめたかと考えたら雪乃と姫乃絡みしかないだろうな〜〜と思ったのです。
2008.04.26

Back