NO SMOKING!

最初の一本。

これが全ての始まりだった。

随分昔、ちょいとグレてた時に吸っていたタバコ。

暫く吸う暇も余裕も無くなって、吸ってた事すら忘れていたのに。

職員室の隣の席の、野々下センセに言われたあの一言。

「あれ、そういや明神先生って煙草吸わないんですか?」

吸いそうに見えるのかとちょっとその辺り釈然としない気持ちになるが、オレは何となく昔吸ってたせいもあって、つい「いや、たまに……」と答えてしまった。

どこか仲間を見つけた様な嬉しそーな笑顔で一本薦めてくる野々下先生。

いやさ、別に吸わなくても全然平気だったんだけど「最近禁煙流行ってますよねー。家でかみさんが禁煙しろって五月蝿くって…」何て雑談まじりに薦めてくるもんだから、ついついその一本を受け取ってしまった。

ライターなんて持ち歩いてないのにどうしようかと思っていると、阿吽の呼吸で差し出される火。

「あ、すんません」

久々に吸ったそれは、苦くて不味くて、あーこんな味だったなってなもんだった。

しかし恐ろしいのはその後だった。

煙草にはコーヒーより強く、麻薬より弱い依存性があると知ってはいたが、まさかこんなテキメンに効果が現れるなんて。

教師なんていう人間と関わる仕事やってりゃストレスもあるし、デスクワークの間についつい口寂しくなってしまう。

それでも今までは気にせずやってこれたというのに、あれから数日後、オレはすっかり煙草依存常習者になっていた。

ただし、家族には内緒で。

あのオッサンは煙草なんて吸わないし、お姫様に至っては匂いを嗅いだだけで嫌〜な顔しそうだ。

まあ、これはあくまで想像だが。

吸う時は学校で仕事してる時に限られていて家では吸わない様にしてるし、家に帰ったら直ぐ背広に消臭スプレーぶっかけてるし、今のところバレる気配は無い。

そう、今のところ。







学校が終った後、冬悟は今日行った小テストの採点に追われていた。

職員室では落ち着かず、周りを気にせず篭っていられる社会科準備室へ向かい自分のスペースを自由に使う。

職員室の机も勿論使うのだけれど、荷物があれこれと置いてあって手狭な上、隣との境界線が何となく気になってしまう。

他の社会科の教師が使う事もあるけれど、冬悟がよく入り浸る為にこの社会科準備室はほぼ個人の「城」になっていた。

時々、他の教師が帰ったのを見計らって「おいで」と姫乃を呼ぶ事もあるのだがそれは余談としておこう。

家に帰ってから仕事をしてもいいのだけど、家に仕事はあまり持って帰りたくはないと冬悟は考えていた。

家では、教師と生徒というしがらみから解き放たれて自由に振舞いたい。

「明神先生」と呼ばれるのは学校だけで充分だった。

帰りが遅くなってしまうけれど、時期によってはそれも仕方が無いと考える。

机の上に答案用紙を一学年分ばさっと広げ、左手にはコーヒー、右手には赤いペン。

最近、じっと下を向いたばっかりでいる事が増えたため、少し目が悪くなってきた気がした。

ぐああ、と呻きながらじくじくする目を擦る。

コーヒーカップの直ぐ側に置かれた灰皿には、既に何本かの煙草が押し付けられ潰されていた。

気を取り直して脊椎反射の速度でペンを走らせていると、ふとチカチカと光る携帯のランプに目を移す。

メールの着信を示すその光に、冬悟は暫く気が付かなかった。

携帯を取り、送信日時を確認すると、送られて来てから既に三十分は経過している。

「やっべ」

慌ててアドレスを検索すると「桶川姫乃」を探し出す。

今からメールするよりも電話の方が早いと判断して電話をかける事にした。

メールの内容は『今どこですか?今日は買い物一緒にできませんか?』だった。

メールが送られてきてから三十分時間が経過してしまった事を考えると、姫乃はもう買い物に向かってしまっているだろうか。

三度目のコール音を聞きながら、冬悟は今現在の姫乃の機嫌レベルを想像した。

1.大して怒っても無く、無事買い物を終らせた姫乃は明るい声で電話に出る。

2.なかなか返って来ないメールに拗ねて、ちょっとばかり不機嫌。

3.最悪の事態。なかなか返って来ない返事を待ちながら、今現在も苛々しながら買い物にすら行けないでいる。

三番を予想した時はかなりゾッとした。

コール音は五回目の途中で途切れ、姫乃が電話に出た。

『はい、もしもし』

「あっと、ひめのん。ごめんな!ちょっと今手が離せなくってさ、なかなかメールに気付かなくて……」

『あ、ううん。いいのいいの!買い物も丁度終ったとこだし……おかず何がいいか聞きたかっただけだから気にしないで』

姫乃は想像以上に良く出来た子だった。

冬悟はホッとしながら電話越しに気付かれない様にため息を吐く。

『まだかかるの?』

「ん?」

『時間。お仕事。今社会科準備室でしょ、行ってもいい?』

「あー……」

と言いながら冬悟は辺りを見回す。

窓越しに見える夕焼けの下、野球部は練習を終えて片付けを開始している。

カーテンを閉めてさらに廊下を覗き込むと、シンと静まり返って人の気配は無い。

「いいよ。こっちももう直ぐ終ると思うし」

『わかった!実はもう学校に向かってるんだ。直ぐ着くからね』

電話がプチンと切れた。

姫乃の明るい声を思い出し、冬悟は顔をにやけさせながらもう一度答案用紙と向かい合う。

早くこいつを終らせてしまいたい。

「うおっしゃ!じゃあちゃっちゃと片付けるか!!」

俄然ヤル気が出てきた冬悟は腕まくりをしてペンを握り締めた。






それから数分後、社会科準備室のドアがそっと開けられた。

ひょいと顔を覗かす姫乃。

冬悟は姫乃に気付いて手招きすると、他の教師が使っている椅子を一つ指し示して座らせた。

買い物袋を足元に置いて、スカートの折れ目を気にしながらちょこんとその椅子に座ると、姫乃は仕事を続ける冬悟をまじまじと眺める。

背中に姫乃の視線を感じながら、冬悟は一枚、また一枚と採点を続けていく。



この社会科準備室の入り口は二つあった。

一つは廊下に面したドアで、もう一つは社会科室から繋がっているドア。

冬悟はこの廊下に面したドアを、放課後になると鍵を閉めてしまう。

それと同時に社会科室の鍵も閉めるのだけれど、足元の小さな窓の鍵を一つだけ開けている。

ここが姫乃の秘密の入り口になっていて、こうしておけば誰にもほぼばれない密室状態が出来上がる。

職権乱用と言うなかれ。

冬悟は冬悟なりに、家と外との隙間に生じる摩擦を回避するに必死だった。

あまり気をつかってよそよそしくしている姫乃を見るのは不憫だと思っているし、姫乃は姫乃で気を使っている自分を気にかけてくれている冬悟に何となく申し訳ないような気持ちを抱いていた。

息抜きの場所をどこかに用意しないと、何かしらすれ違ってしまう。

そうならない為の処置だったけれど、どうも保健医の湟神澪にはどこまでかわからないが何かしら感づいているふしがある。

そこは気にしつつの、要は軽い「現実逃避」だった。

「私、何点だった?」

ペンを走らせるの冬悟の背中から、姫乃が覗き込んで呟いた。

冬悟は慌てて答案用紙を隠す。

「こういうのは先に見せません。他の生徒のも目に入っちゃうだろ?」

「あ、そっか!ごめんなさい」

「コーヒー、飲みたかったら作っていいよ。暇だろ?」

「あ、うん。明…冬悟さん見てるだけでも楽しいけど……」

冬悟はピタリと手を止めて、椅子をくるりと回して姫乃の方を見た。

この呼び方の違いで、お互いが今「家」と「学校」どちらのモードで話をしているかを分けている。

姫乃は今冬悟と言った為、今は学校だけれど家と同じ感覚で会話しているという事になる。

確認を求める様な目をする姫乃に「了解」という風に相槌を打つと、冬悟は姫乃の頭をぐりぐりと撫でた。

「楽しいか?背中見てて」

「うーん……ひたむきに仕事してるなあって。家じゃあんまり見せないでしょ、そういうの。普段は勇一郎さんと喧嘩してばっかだし」

「む……」

冬悟は腕を組んで考えた。

そうか、見せなかったら見せなかったでいかん場合もあるのか。

乙女心は難解すぎる。

「新鮮だなあって思っただけ。コーヒー淹れてきます」

パタパタと遠ざかる足音を聞きながら、冬悟はなるほどと考えた。

新鮮ときた。

そういう見方もあるのか。

仕事を家でする自分を想像した。

机に向かってコリコリとペンを走らせ、その後ろで姫乃がコーヒーを淹れてくれたり仕事する自分を楽しそうに眺めている……。

冬悟はワシワシと頭を掻き毟った。

「ぐあああ……絶対集中出来なくなるな」

やっぱり家で仕事するのはやめようと冬悟は思った。

想像するととてつもなく楽しそうだけれど、その反面作業効率は低下しそうな気がする。

ハイとロウに例えるとややハイ気味になった気分を落ち着かせる為に、冬悟はほぼ無意識に煙草に手を伸ばして火を付けた。

カチ、と音をたてるライター。

軽く吸って、フッと息を吐くと、白い煙が立ち昇る。

「え?」

「ん?」

「あ!」

「げっ!」

背後から声がして振り返り、その表情を見て自分がしてしまった事に初めて気が付いた。

冬悟は慌てて煙草を灰皿に押し付ける。

「煙草ー!冬悟さん吸ってたの?」

「いやあの、たまーに、って言うか、最近ちょっとだけ」

「ああ!灰皿こんなに一杯になってる!」

「いやコレは……ほら、単純作業が増えてくるとさ、こう口寂しくなってきちゃって。ついつい」

「口寂しいって……」

姫乃は買い物袋をガサガサと探ると、中から飴を取り出すと、それをズイと冬悟の目の前に差し出した。

「じゃあこれ舐めて下さい。煙草なんて体に悪いの駄目!冬悟さん不良!」

「不良って、オレもう成人してますよ」

「言い訳しない!」

腰に手を当てると姫乃は胸を張って冬悟に説教を始めた。

煙草がいかに体に悪いかを数分にわたって演説するけれど、冬悟に言わせると「そんなの百も承知なんです」というところ。

わかっていても吸いたくなるのが煙草というもので、実際落ち着く気がするんだから仕方が無い。

頭ごなしに「駄目!」と言われても、こちらにはこちらの都合がある。

冬悟はプウと頬を膨らませた。

「やめろっつって直ぐやめられたら世話ないっての。家じゃ吸わねーし別にいいだろ?」

「あ、何その反抗的な態度。勇一郎さんにばれたら困るくせに」

「親父は関係ありません!」

言った後、冬悟はにらみ合う顔をぐいと近付けた。

「……じゃあさ、ひめのん。オレが口寂しーくなったらキスして。そしたら煙草やめる」

「なっ!」

「多分一発で止められると思うんだけど。どう?」

冬悟の提案に、姫乃はばたばたと手を振りながら顔を真っ赤にする。

半分冗談だろうと思いながら、冬悟の笑顔が心臓に悪い。

「どう、って!言われても困るよ。それにこれは冬悟さんの問題でしょ?自分で解決する!」

「そう言われても、オレは止める気ねーもん。煙草止めて欲しいのはひめのんだろ?」

冬悟は少しづつ姫乃ににじり寄る。

迫られてじりじりと後ずさりして、気が付くと背中には壁。

姫乃は逃げ場を失った。

「そ、そんな事言われたって」

「だって、止めろ止めろってそればっかりじゃ無理だもん。煙草って依存性強いの知ってんだろ?何かご褒美あったら頑張れる気がする」

「ご褒美って」

「ひめのん」

「う」

壁に押し付けられる形で捕らえられた姫乃と、壁に両手を押し付けて逃がさない様にした冬悟。

視線はぶつかったまま逸らす事が出来ない。

「ここ、学校だよ。冬悟さん」

「うん」

「人、来ちゃうと困るよ」

「鍵閉めてるし、カーテン閉めてるし、外、誰も居ないし大丈夫」

姫乃から「冬悟さん」と言い出した為に、今の冬悟に「学校です」は通用しない。

半密室状態が冬悟の背中を強く押した。

コツンと額をぶつけると、姫乃がぎゅっと目を閉じた。

冬悟はゆっくりと、唇の距離をゼロにする。

「んん……ん゛っ」

その瞬間、姫乃が身を引こうともがきだした。

冬悟はそれを、両手を奪う事で動きを制限する。

背けようとする顔を追いかけて、少しづつ膝が曲がる。

「ん゛ー!!む゛む゛……」

あんまりごそごそ動く姫乃に、冬悟は少しばかり苛立った。

「……やかましい」

呟いて、歯を舌でなぞる。

たまらず開いた隙間にねじ込んで中を探る。

「む゛ーーーー!!!!!」

姫乃の膝が、冬悟のみぞおちに食い込んだ。

「ぐえっふぇ!!」

全く無防備な状態から入った一撃に、冬悟はたまらず体をくの字に折った。

こんなの、最近は勇一郎からも貰った覚えが無い。

更に姫乃は力いっぱい冬悟を突き飛ばした。

ガタン!バタタと盛大な音を立てて冬悟は引っくり返り、椅子の足で頭をぶつけた。

「痛ってええええ!!ひめのん、何すんだ!」

目に涙を浮かべながら訴える。

姫乃は呼吸困難だった状態から何度かの深呼吸をして立ち直りつつある。

口元を押さえながら目には涙。

「な、何だよ……そんなに嫌だった?」

慌てた冬悟に、呼吸を整え終わった姫乃がカッと目を見開いて叫んだ。

「冬悟さん、口、煙草くさい!!苦い!!もう煙草吸ったらキス禁止ー!!!」

冬悟は飛び跳ねて姫乃の口を押さえた。

確かにさっきまで外に人は居なかったけれど、今現在この怒鳴り声がどこまで響いているか想像は出来無い。

口を押さえられながら姫乃はまだ怒り収まらない様子で、冬悟がそおっと手を離すと淹れたばかりの甘いコーヒーを一気飲み。

「何かオレ……今すっげー傷ついてるんですけど」

「自業自得です」

「ひでぇ」

とにかくキスをした事に対してあれだけ拒否をした訳じゃないのはわかってホッとしたけれど、冬悟は体中の力が抜けるのを感じた。

ぶつけた頭が今になって痛みだす。

「ってー……」

鳩尾と頭を撫でながら痛みに眉をしかめると、心配そうに覗き込む姫乃の目。

よろよろと手を伸ばすと姫乃はその手を掴む。

「あ……ひめの」

「悪いとは思ってるけど、次やったらもっと怒るからね」

「……ハイ」

冬悟は永遠の禁煙を心に誓った。







数日後、冬悟は買ってあった煙草と灰皿とライターをまとめてゴミに出した。

あれだけ止めるのに抵抗があったのに、今はもう一度吸おうなんてちらりとも考えられない。

余程ショックだったんだなとあの時の姫乃の表情と言葉を思い出して、もう一度苦い顔。

「冬悟さんどうしたの?」

自宅に持ち帰ったテスト用紙を広げながらぼんやりしていると、姫乃がコーヒーを淹れて来てくれた。

煙草を取り上げられた冬悟は、他に癒しを求める事に切り替えたのだ。

多少の作業効率の低下は仕方が無い。

手渡されたブラックのコーヒーを一口。

隣で自分用の甘いコーヒーを飲みながら、姫乃が首をかしげて「どうしたの?」ともう一度聞く。

「んー。あの時の事を思い出してました」

「あの時?」

姫乃が解りませんという顔をして首を捻る。

「わかんない?」

「うん。ヒントないとわかんない」

冬悟は胡坐で腕を組み、姫乃は正座で両膝にぴしっと両手を乗せる。

そして冬悟は何か思いついた様にポンと手を打ち。

「ヒント」

ちょいちょいと指で姫乃を手招いて。

「ん?」

無防備に近づいた姫乃に冬悟は一言。

「……一度痛い目見たなら、少しは警戒する事を覚えなさい」

「へ」

捕獲するのと唇が重ねられるのがほぼ同時。

家に勇一郎が居る為、今回は短い触れる様なキス。

「……とまあ、過去の苦い思い出にふけってた訳だ」

「……」

姫乃は顔を真っ赤にしながら口元に手を当て、自分のコーヒーにそっと手を伸ばした。

おずおずと冬悟の目を気にしながら、一口飲む。

それを見て冬悟の顔が渋くなり、姫乃が申し訳なさそうに俯いた。

「今回は何デスカ」

「冬悟さんのコーヒー……ブラックだから、苦くて」

冬悟は絶句した。

煙草は止めた。

姫乃の為に。

これでコーヒーまで取り上げられたらどうすればいいのかわからない。

嗜好品の全てが「使用不可」になっていく。

それでも、それ以上の効果と栄養分があの瞬間にあるのなら……。

冬悟はポケットをまさぐった。

入りっぱなしになっている小銭を掴み、その中でも大きな玉を一つ握る。

「……ひめのん、ちょっとこれで好きな味の飴を買ってきなさい」

「こ、今回のは嫌とかはないよ!ただちょと、苦いなって」

「はい解りましたから。行って来なさい」

「うう、はい……」

姫乃は渡された五百円玉を握り締めて近所のコンビニまで走り、冬悟は何事もうまくいかないものだとそっと涙を流した。


あとがき
こちらは空木さんに捧ぐ「高校教師明神で、がんがん攻めてる感じで…」なネタです。
仕事先の女の子が「禁煙したい」と言っていたのを聞いて思いつきました。想像力逞しい……
最後はやっぱり駄目な大人になってしまいました。すみません…。まだ修羅場かと思いますが、返却可で捧げます!

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