からんころん
「ひめのーん!早くしねえと、もう始まっちまうぞ!」
「はあい!ちょ、ちょっと待ってね!」
階段の下で大きく呼ぶと、姫乃がそれに負けないくらい大きな声で答えた。
女の子は身支度に時間がかかる事を、明神は良くわかっている。
なので、出発より早目に声をかけると丁度良い時間に出れる…これは明神が姫乃と付き合いだして、ちょっと経ってから解った事だ。
特に今日みたいな日は。
明神は階段下に座り込むと、長期戦の構えで足をだらりと伸ばした。
今日は近くでそこそこ大きな祭りがあるという事で、二人で出かける事になっている。
今、姫乃は浴衣を雪乃に着付けして貰っているのだが…。
雪乃は「娘に浴衣を着せてあげるなんて何年振りかしら」と、本当に嬉しそうでエラく気合いが入っていたので、明神は用心して出発時間の十分前に声をかけておいた。
雪乃の気合の入り具合は、昼の間に近所の百貨店で下駄や巾着等を買い揃える程。
その買い物に明神も連れて行かれたのだが、女性の買い物というのは、とにかく長い。
姫乃の物を選ぶという事で、明神の好みも参考にしたいと微笑む雪乃の申し出は断れず、しかし悩みだしてから決めるまでの間がとにかく長く、明神はその長さに驚いて口をポカリと開けた。
呆れつつ、一つ見ては次を手にし、でもやっぱりアレも捨てがたいと元気に売り場を動き回る雪乃の事を、年上の女性に対してどうかとは思うが、可愛らしいと明神は思った。
一つ一つのしぐさが姫乃と重なる事もあって、やはり親子だと再確認する。
そんな訳で、祭りの開始は夕方の五時だったと明神は記憶しているけれど、丁度今が五時だったりしている。
やっと姫乃が雪乃に付き添われて階段を降りてきたのが五時十五分。
透明な海の様なブルーの浴衣には、薄いピンクの花が咲いている。
初めて制服姿の姫乃を見た時とはまた違う印象を、明神は受けた。
ハッとした。
髪を結い上げた姫乃が「似合う?」とちょっと首をかしげる。
明神は素直に、似合うと答えた。
「じゃあエスコートお願いね、冬悟さん。」
満足そうに姫乃を眺めながら言う雪乃から姫乃を預かると、明神は何だか特別な任務を授かった様な、心引き締まる気持ちで玄関をくぐった。
明神と姫乃は、並んで道を歩いていたけれど、明神はやはり見慣れない浴衣姿が気になった。
ちらりちらりと姫乃の方を観察すると、薄暗かったけれどほんのりと化粧をしているのが確認できた。
これも雪乃がしたものだろうと推理して、明神は結い上げられた黒髪と、簪を眺めた。
今日悩みに悩んで買った簪は、姫乃の髪をしっかりと結い止めている。
浴衣の色に合わせた淡いブルー。
姫乃に良く似合っている。
明神は目線を下に動かすと、首筋がとても綺麗だと思った。
自分ではあり得ない滑らかなライン。
髪を上げただけで、普段可愛らしいなと思ってる子がこんなに色っぽくなるもんなんだと明神は感心する。
「ね、明神さん。私の頭に何かついてるの?」
言われて、明神は目線を姫乃の顔に戻す。
ついでに違う言い訳も考える。
「…その簪。今日お母さんがうんうん悩んで買ってたから。」
そう言うと、姫乃は本当に嬉しそうに笑った。
薄いピンク色の唇が笑う。
「当たり」の質問に、明神は自分で自分を褒め称えた。
会場への道は、祭りへ向かう人達で流れが出来ている様だった。
皆同じ方向へと向かっている。
会場に近づけば近づくほど人が増え、明神は手を繋ぐタイミングを計り損ねた。
そして会場に着いたら、あまりの人の多さに明神はちょっと引きつった。
買い物なんかで時々二人で通る大通りは、提灯が沢山吊るされてぼんやりと薄明るい。
店ごとに手作りの看板と、様々な食べ物の匂いが混ざった重い空気。
それから、先へ進む人に戻ってくる人、店に並ぶ人。
四車線の道路は交通規制で通行止めになっている。
その幅の道を所狭しと人、人、人の群。
この中を進むのかと明神がげんなりしていると、隣の姫乃が勢い良く人の波に乗って歩き始めた。
明神は慌てて後を追う。
「明神さん、何食べたい?私カキ氷!」
「ええと…オレ焼きそば…って、はぐれんなよ。」
人波にさらわれそうになる姫乃の腕を、明神は捕まえた。
上手い具合に手を繋ぐ事が出来て、明神はやれば出来るもんだと自分に拍手を送る。
姫乃は、ちょっとだけはっとした顔をした後、にっこり笑って歩き出した。
明神は、周りの波から頭一つ半位小さな体を一生懸命追いかける。
繋がった手を離さない様しっかりと握るけれど、時々その手は人の影に隠れ見えなくなる。
それは、明神の頭が人の波から一つ頭飛び出している為に、手と目の距離が長いせいもある。
時々振り返って明神の様子を伺う姫乃は、何時見ても笑顔だった。
明神が祭りに来るのは、本当に久しぶりだった。
男一人で祭りをブラブラ、という姿はあまり想像出来ないし、まあ自然な事だけれど。
人ごみもあまり好きではなかったし、髪も目立つから中・高時代にも行っていない事を考えると、最後に行ったのは両親が生きていた頃。
もう殆ど残っていない記憶の代わりに、写真が何枚かあった様に思う。
明神は帰ったら久しぶりに見てみよう、という気持ちになった。
それにしても、姫乃は元気だ。
先ず手始めにカキ氷を手に入れると、たこ焼き、わた飴、イカ焼きと次々に平らげる。
食べる事に気が済むと、次はヨーヨー釣りにくじ引き、輪投げに興じる。
握られた手は常に引っ張られる形になっていた。
大通りに沿って、細長い形になっている祭りの会場を一回り終えた時、姫乃が誰かを見つけて手を振った。
「あれ、姫乃?」
「来てたんだ!」
姫乃は声をかけてきた数人の浴衣姿の女の子達の元へ駆け寄った。
自然と、繋がれた手が解ける。
いつもそうなのだが、明神はこういう時何となく話が済むまで少し離れたところで待っている。
イマドキの若者と何を話していいのやら、という事もあるし、ほんの少し、気を使っている事もある。
何せこの風貌。
今日は黒いコートは着ていない(こんなトコに着てきたら暑くて多分死ぬ)
白い半そでのシャツに、いつものジーパン。
それから、お守り代わりにサングラス。
それだけならどこにでもいる若者なんだろうが、異様に目立つ毛の先まで真っ白い髪。
大抵の人間が「え」という顔をするのには慣れたけれど、それで姫乃がどういう気持ちになるかを考えると、申し訳ない様な、いたたまれない気持ちになった。
それで染める気にはならないけれど。
「姫乃髪結うと雰囲気変わるねえ。」
「そうかな?これお母さんがやってくれたんだ。」
「あー、最近田舎から出てきたっていう?」
「うん。巾着とかも一式買ってもらっちゃった。」
「いいなあ!」
一通り友人同士の会話を終えると、話題はイレギュラーな存在の明神へと移る。
「…ね、姫乃。その人、彼氏?」
「ん?」
視線で明神を指しながら友人が問う。
明神としては触れずにそっとしておいて欲しかったのだが、会話の流れとしては自然とそうなるだろう。
何か言うかと明神が「あー」と口を開きかけると、姫乃が振り返って笑った。
「うん。そう!」
明神は一瞬呆気にとられた。
「そうなんだ。え、と。」
「明神さん。私のアパートの管理人もやってる人なんだ。」
そう言って、姫乃は明神の手を掴むとぐいと引っ張った。
明神は何だか、気を使うのが馬鹿らしくなってきた。
本当は気を使っているんじゃなくて…気後れしていただけなんだとも気が付いた。
明神は自分で一歩進んで姫乃と肩を並べた。
友人達が明神を見上げ、半歩下がる。
それでいい。
そんでも、あれだけあっけらかんと躊躇無く「そうだ」と言い切ってくれたんだから、明神は胸を張るべきだと腹を括る。
後はへらりと笑って。
「ひめのんがお世話になってます。ってか、オレがひめのんに世話になってマス。」
デカイ図体をちょっと曲げて挨拶してみる。
初めて姫乃と会った時みたいにちょっと他人行儀に、愉快なお兄さん風に。
「あ、あの…こちらこそ、姫乃にはいっつもお弁当分けてもらったり勉強教えてもらったり。」
「明神さんの事も姫乃から時々聞いてますよ。カッコいいとか、優しいとか、惚気ばっかりだけど。」
明神が笑うと姫乃は慌てて友人の口を塞ぐ。
「過大評価されてんだなァ、オレ。」
あっはっはと笑うと友人達も笑う。
何だ。
意外と何もかも簡単だ。
「もう!……別に、過大評価じゃないもん。」
「ひ、姫乃。もう駄目。聞いてるこっちが恥ずかしい。」
「いや、何てか多分オレが一番恥ずかしい。」
「ちょっと彼氏さん!!その発言がまた恥ずかしい!」
「あ、マジで?」
「あああもう!明神さん、もう行くよ!!」
怒ったか拗ねたか、顔を真っ赤にした姫乃がずんずんと歩き出す。
明神は姫乃の友人達に手を振ると、急ぎ足で姫乃を追った。
「ひめのんー。あんま先行くと迷子になるぞ。」
「なりません!」
「人ごみスゲェから、ほら。」
腕を掴んでほぼ強制的に隣に並ばすと、観念したのか大人しくなった。
「ありがとうな、ひめのん。」
「へ?何が?」
「いや、色々。」
「…褒めた事?」
「だけじゃないけど。まあそれも。」
「ふーん。ずいぶん楽しそうに話してたけど。」
「ん?」
「狩野さんと、増田さんと!」
プイと顔を背ける。
明神はえ?と目を点にした。
「ええ!?そうなるの!?いやいやいや、コレは免罪だろ!」
「だって。」
「じゃあ告白するけど、今日ひめのんの浴衣姿、すっげー色っぽいなあと思ってじろじろ見てました。」
「な!」
「だから、他の子は見えてません。ひめのんだけ。色っぽいな〜とか、ああ化粧してんな、とか。後は…手、握れたのが嬉しかったとか、人多くてあーはぐれたくねぇとか、良く食うな〜とか、元気だな〜とか。うたかた荘出てからひめのんだけ。」
そう言うと、姫乃は顔を真っ赤にして俯いた。
「よ、良くは食べてないよ。普通。」
そこに反応するのか、と明神は意外な抗議にまた目を点にする。
「そこ!?ひめのんオレの話ちゃんと聞いてんのか?もっとこう、色々反応するとこあるんじゃねぇの?人がせっかくちょっと恥ずかしいのを我慢して色々白状してるのに。」
「い、色っぽいって…どの辺りが?やっぱり、化粧したら違うの?」
「ん?」
俯いた顔をそろそろと上げる姫乃の顔は、まだ真っ赤のまま。
「お、お母さんがほら、明神さん大人の人だから、この位がいいのよ、とか言って。私は化粧とか苦手だから、したくないって言ったんだけど、やっぱり効果ある?何だか浮いてるな〜って思ってたんだけど…。」
むう、と明神は腕を組んだ。
その質問に答えるには、少々考えなくてはならない。
腹の中の本音をはっきり言った場合、少々引かれるかもしれない。
でもたまには、こういうのもいい刺激でいいかもしれない…等と考えて。
「化粧は、正直ホント、いいなと思った。ああけど普段からあんまりしてるイメージないから、たまには、っていう意味な?でもお母さん綺麗にしてくれてると思うよ。後…オレが一番色っぽいなあと思ったのは、化粧とかじゃなくて、その、首の辺りが。」
首、と言われて直ぐにはピンとこなかったのか、姫乃は一瞬考える顔をした。
それから、ポンと手を打って。
「あ。うなじと言うやつ?」
「そう。」
姫乃はパッと手で首筋を隠した。
「え、隠すの?」
「そ、そういう風に見てるとは思ってなくて。」
「いや、褒めたんだから、隠さなくても。」
「は、恥ずかしいから。」
「子ども扱いしたら怒るのに、色っぽいって言ったら隠すの?」
「それとこれとは別!」
「ふーん…。」
明神があからさまに目線で姫乃の首筋を追うと、姫乃はその視線から逃げるべく必死で抵抗する。
そのあまりに必死な様子がおかしくて、つい笑うと今度は怒り出した。
「もう!ちょっと明神さん!?」
「そんなに怒らないで。ああ、ほらもう直ぐ花火が始まる。」
「え?」
明神が、会場内のいたる所に設置されたスピーカーを指差すと、花火開始のアナウンスが流れていた。
周りの声が大きくて姫乃はそれになかなか気付かなかった。
そんなちょっとした事に感心して、姫乃は明神を尊敬の眼差しで見つめ、褒めた。
今まであれだけ恥ずかしがっていたのに、それを直ぐに忘れて感動している姫乃を、また明神は笑った。
花火も終わり、祭りも終盤になって、にぎやかだった店もそろそろ片付けが始まった。
花火を見終えた時点で祭りに満足した二人は、また並んで来た道を戻りだす。
行きと同じく、帰り道もまたそれぞれ家に帰る人で流れが出来ている。
その流れに乗りながら、二人はうたかた荘までゆっくりゆっくりと歩いた。
楽しかった祭りの余韻に少しぼんやりしながら、手を繋いで歩調を合わせて。
うたかた荘の近くまで来ると人気も少しまばらになる。
姫乃の下駄の音が、急にはっきり聞こえる様になった。
からんころんと、何だか涼しげな音を、行きは気付かなかったなと明神は思う。
夏らしい、いい音。
浴衣、簪、薄化粧に、綺麗なうなじ。
下駄の音、耳に残っている花火の弾ける音。
「楽しかった?」
明神が聞くと、姫乃は笑って頷いた。
「そっか。オレも楽しかった。」
「良かった。始めの方は私だけはしゃいでたから、ちょっと心配してた。」
そう言う姫乃に、明神は驚いた。
何も言わないから気付かれていなかったと思ったのに、些細な変化を見抜かれていた。
「…ああ、だから拗ねたのか。」
友人達と話をしてから明らかに調子を取り戻した事に、姫乃は不満を感じていた。
それにやっと今気付いて。
立ち止まると姫乃の手を引いて。
周りに誰も居ないのは少し前から確認済み。
曲がり角の先にも人の気配は無い。
誰か来るかもしれない焦りで逃げようとする姫乃をやや強引に引っ張って、薄いピンク色の唇にキスをして、祭りの間ドキドキさせられた憎い首筋にも軽く触れる。
耳たぶの少し下の辺り。
何だかいい匂いがしてうっとりした。
明らかに硬直した姫乃を抱きしめて、明神は腹の中でそっと笑った。
それからの帰り道、姫乃はずっと俯いたままだった。
声をかけてもずっと下を向いたままアワアワ良く解らない事を答える姫乃に、明神はそんなに驚いたのかと苦笑いする。
うたかた荘に戻ると、今まで繋いでいた手を離して元気にタダイマを言った。
姫乃はまだちょっと顔を上げる事が出来ないのか、小さく「ありがとう」と言うと慌てて部屋へと戻っていく。
すれ違い下りてきた雪乃に明神はペコリとお辞儀した。
「今日はありがとうね、冬悟さん。」
「や、いえ。オレの方も楽しませてもらったし…。祭り行ったの久しぶりだったんで、良かったですよ。」
そう言って頭を掻き笑うと、雪乃もうふふと笑う。
「良かったわ。でも冬悟さん、それ何時から?」
「…は?」
「口。」
「え?」
「まさかお祭り行く前からじゃないでしょう?」
「な、何が。」
「洗った方がいいわよ〜。」
そう言ってニコニコ笑ったまま立ち去る雪乃の背中を、明神は硬直したまま見つめた。
急に恐ろしい予感に襲われ、ギクシャクと洗面台へと向かうと、鏡に映る明神の唇に姫乃の口紅の色が薄く移っている。
明神の心臓が軽く止まった。
呼吸をする事すら一瞬忘れて一時止まると、慌てて手で口を拭う。
拭って少し伸びた薄いピンク。
恐ろしく恥ずかしくて、穴でも掘って入りたい気持ちになりながらもう一度鏡を見る。
唇からはみ出したピンク色。
似合わないというか、気持ち悪い。
乱暴に洗い流そうとして、ふと、重ねた感触を思い出して流すのが勿体無くなって、かと言ってこのままにはしておけなくて。
明神は姫乃に触れる時の様な慎重さで、そおっと丁寧に口紅を洗い流した。
あとがき
やっと書けました。夏物です。
ひめのんは時々口紅を付け直していた、という事で…。
2007.08.07