ジレンマ
「いってきます。」
手を振って姫乃が走り去るのをガクは心配そうに見送った。
とぼとぼと歩く姫乃の背中は丸まって、いつもより小さく見えた。
その姫乃の背中が見えなくなると、ガクは途端に不機嫌そうな顔に変わり「あの馬鹿が」と呟いた。
今朝ガクが姫乃に挨拶すると、姫乃は、昨日の晩に明神が仕事に出てからまだ戻っていないと目を真っ赤にして言った。
数日前にハセと戦い、まだその時の傷が治ってない明神を心配し、探しに行こうとする姫乃をガクは止めた。
直に傷を見ているからかややパニックを起こしかける姫乃に、心配ない、早く学校に行かないと遅れてしまうと促し、最後は明神が帰ったら知らせに行くからと約束して、何とか姫乃を学校へ送り出した。
あまり寝ていないのか、姫乃は少しフラフラしている気もした。
休ませても良かったかもしれないと思うけれど、家に居たらやっぱり探しに行くと言い出しかねない。
姫乃が明神の心配をするのはまあ管理人だし、姫乃は優しいからだと自分に言い聞かせながらも、「明神さん明神さん」と彼女の口から何度も何度も明神の名前を聞くとあまりいい気はしない。
もう一度、ガクは「馬鹿め」と呟いた。
その時、バタバタと騒がしい足音がうたかた荘に近づいてきた。
ガクが振り返ると、わき腹を押さえながら明神が走って来る。
ほらみろ、こいつはちょっとやそっとじゃくたばらない。
肩で息をしながら玄関前に辿り着くと、明神はガクをスルーしてきょろきょろと目を動かす。
「あ〜。ひめのんもう学校か。くっそ〜、間に合わなかったかあ。」
ふーとため息を吐くと、その明神の真上から巨大なハンマーが振り下ろされた。
「うおァ!?」
すんでのところでそれをかわす明神。
チッとガクが舌打ちをした。
「テメェ、何しやがるガク!!」
「オマエなんか戻ってこなければいいのに…。」
そう吐き捨てると、怒鳴る明神を無視してガクは歩きだす。
「オイ、どこ行くんだよ!」
「…ひめのんにオマエが生きていたと伝えに行く。」
「ひめのん、やっぱ心配してたか。…マズったなあ。」
明神は昨晩の事を思い出す。
夜になり、仕事に出かけようとする明神を、まだ傷も治りきっていないし、危ないと言って姫乃は止めた。
けれど久々にちゃんとした収入がある仕事だったし、骨折したあばら以外はほぼ完治していた事もあり「大丈夫だから」と言って出たのだが。
思ったより手こずって今に至る。
戦っている間姫乃の心配そうな顔がちらついて、急がないとと思う気持ちが逆に空回りしてしまった。
「オイ待てよ、オレも行く!無事な姿ちゃんと見せた方が安心するだろうし…。」
ガクの背中に声をかけ走って追いかける明神を、ガクは振り返りギロリと睨む。
「着いて来るな。大体もう学校は始まってるんだからオマエは校舎には入れないだろう。この考えなしの脳足りんめ。」
「んなっ…!いちいち絡むんじゃねーよ!朝っぱらから気分悪ィ。こっちだってイライラしてんだ潰すぞテメエ。」
「出来るもんならやってみろ。」
「おお、やったろーじゃねえか!」
臨戦態勢をとる明神。
暫し対峙するが、ガクがくるりと背を向ける。
「…なんだよ。」
歩き出したガクを追いかける明神。
「おい待てって!何なんだよ!」
「だから着いて来るなと言ってるだろう、忌々しい。」
「あのなあ…。」
明神が文句を言おうとすると、ガクが振り返った。
立ち止まり睨み合う二人。
「…オレは、ひめのんを愛している。」
突然言い出した言葉にまたいつもの、と鼻で笑う明神。
「ああ、はい。そうだな。」
「そうじゃない。オレはひめのんを愛している。」
「だから解ってるって。」
「解ってない。オマエは何も解っていない。」
ムッとして黙る明神。
「生まれて、死んで、初めて理解した感情だ。オレはひめのんを本当に愛してる。ただ愛情を注ぎたいだけじゃない。愛情を注がれたいと思う相手だ。わかるか?」
「…わかるかよ。」
ガクの言おうとしている事は何となく解るのだが、元々理解の範疇外にいると思っていたし、あまり解りたいとも思わない。
ただ、ガクが本気で姫乃の事が好きなのだという事はわかった。
「ひめのんは、オマエの事を本当に心配していた。眠れなくて、目を真っ赤にしていた。責任を取れ、取って死ね。」
「…だから、今から謝りに行くんじゃねーか…。」
「だから、そんなボロボロの格好で行けば、余計ひめのんが心配すると言っているんだこのボケ!」
不意打ちで明神を殴るガク。
ズドンと尻餅をつく明神。
すぐ起き上がる。
「っやりやがったな!!」
ガクの胸倉を掴む。
ガクも、明神の胸倉を掴む。
二人は同時に仰け反り、ゴツ、と額がぶつかる。
強く頭突きをし、目を回したのは明神。
「フン。」
膝をつく明神を見下ろすガク。
「怪我してる上に、寝てないからこうなる。自分のコンディションも解らず猪の様に突っ走るからだ。馬鹿め。」
「…るせ。」
「ひめのんは。」
何でオマエみたいな馬鹿がいいんだろう。
「あ?なんだよ。ひめのん何かあったのか?」
「…。」
最近、わかってきた事がある。
姫乃が明神に対して抱いている感情や、明神に向ける眼差しの変化。
姫乃が好きで、姫乃の様子を誰よりも観察している自分だから気付いてしまった事。
「生まれて初めて、触れて欲しいと思った相手だ。与えるだけでいいと思っていたオレが。」
「…あ?」
「やっと出会えたのに。もう触れられない。死んだから。生きていれば、ただ背中を追いかける事なんかしないで肩を掴んで引き止める事も振り向かせる事も出来るのに。生きていれば。」
「…ガク。」
「だから明神。オマエは。」
明神が口を噤む。
生きてる、死んでいるは特に気にしていなかった。
ガクも死んでいる事を嘆いたりする事は今まで一度も無かった。
お互い触れてはいけない境界線だと、どこか思い込んでいた。
「…わかったよ。今日はとっとと休んで早く体直…。」
言いかけた明神の言葉を、ガクが遮る。
「…オマエは、早く死ね。」
ピシリと二人の間にヒビが入る。
明神は怒鳴り、ガクはそれを無視して歩き出す。
それでも、明神はもうガクを追わなかった。
ガクは一人で学校へ向かう。
授業中でも生きた人間にはガクの姿は見えない。
グラウンドを突っ切り、姫乃のいる教室を探す。
幾つかの教室をすり抜け、四つ目の教室で姫乃の姿を発見した。
姫乃は先生の話も聞いているのかわからない様子で、ただノートをじっと見つめていた。
膝の上で組まれた指が、そわそわと落ち着き無く動いている。
「ひめのん。」
出来る限り優しい声で呼ぶと、姫乃はパッと顔を上げた。
授業中なので声は出せない。
姫乃は口パクで『明神さんは?』とガクに聞いた。
「帰って来た。ピンピンしてる。」
次の瞬間、姫乃は「ほー」と息を吐くと本当に嬉しそうに笑った。
目に涙を浮かべながら『ありがとう、ガクリン。』
「桶川、聞いてるか?」
授業中、宙を見上げる姫乃を教師が呼んだ。
姫乃は慌てて立ち上がる。
「あ、はい!大丈夫です!!」
「…いや、大丈夫じゃなくてだな、ちゃんと聞いとけよ。」
「…ハイ。」
笑うクラスメイト。
姫乃は顔を赤くして着席する。
もう一度ガクの方を見ると、やっちゃった、と小さく言いながら苦笑い。
ガクは姫乃に微笑み返す。
これ以上姫乃の邪魔をしてはいけないと、ガクは姫乃に手を振り教室を後にする。
ホッとした姫乃は急に睡魔に襲われる。
うとうとしてしまったところをまた教師に当てられ飛び上がった。
ガクはうたかた荘に戻りながら、さっき姫乃から貰った笑顔を何度も何度も頭の中で再生する。
目蓋に焼き付いて離れない愛しい人の笑顔は、自分に向けられたものだけれどその笑顔の原因は明神。
胸がジリジリした。
いっそうの事明神を本当に亡き者にしてくれようかと思うけれど、そうすれば姫乃は多分今後一生笑いかけてくれなくなるだろう。
それに泣き顔は見たくない。
消したいけれど、消すと得られなくなる笑顔。
消せないけれど、放っておくといつか必ず自分の害になる。
今はのほほんと何も気付かず、ただいい大人を演じているあの男がいつ姫乃の気持ちに気付くかと思うと、やはり消してしまいたいと思ってしまう。
何故自分ではないのだとは言わない。
死んでいる身の自分に、まるで家族の様な「愛情」を注いでくれている事は確かなのだから。
ぐるぐると考え事をしていると、いつの間にかうたかた荘を通り過ぎた。
気付いて足を止めるガク。
「…。」
今帰ったところで明神のイビキに殺意を覚えるだけ。
ガクは目を閉じると、そのまま何も見ずに歩き出した。
耳を澄ませ、周りの音だけを聞きながら闇雲に歩く。
人も物も、ガクをすり抜ける為に事故は気にしなくていい。
姫乃の学校が終わるまでの間。
眠たそうにしていた姫乃が帰りに事故に遭わない様、後数時間したら迎えに行こう。
…多分、その頃になるとあの明神が起き上がり姫乃にとりあえず謝りに行こうとするだろうから、それより早く。
明神を見た姫乃は、きっと美しく笑うだろうけれど、今日はそれを見たくない。
少し早足で歩く。
ガクの長い散歩が始まった。
あとがき
久々にガク姫です。
ハセ戦直後で、まだ姫乃と明神は何でもない感じです。
明姫が好きなのでなかなか書けないのですが、ガクも凄く好きなのです。
2007.2.23