アゲハ

「……げ」

夜科アゲハはクラス発表の日、大きな掲示板の前で愕然とした。

沢山の名前が書かれた掲示板を上から順に読んでいると、いきなり雨宮桜子の名前が目に飛び込んできたからだ。

「お……覚えてねーよな、まさか……」

言いながら目線を動かすと、友人坂口の名前も大きな表の中から見付ける事が出来た。

中学からの腐れ縁は続くらしい。

ヨシ。

いや、ヨシじゃねぇ!

中学からの友人である坂口は、知らないのだ。

クラス一の乱暴者で、トラブルバスター兼トラブルメーカーで、この界隈では誰も敵わない無敵のアゲハ様が、幼い頃母親を亡くして一人の女の子の前でおいおい泣いた過去の事なんて……。

掲示板に書かれた雨宮という文字を見ると、懐かしさからか過去の記憶が一気に蘇ってくる。

授業中騒いだ時、アゲハを恐れず注意出切るのは雨宮だけだった。

クラスの女子も男子も皆雨宮の事が好きで、いつもにこにこ笑っていて……。

「あの記憶」も突然鮮明に蘇り、アゲハは頭を両手で抱えてしゃがみ込む。

「……!! 雨宮がアルツハイマーとかになってますように!!」

心の叫びは自分の頭の中でだけ響き渡った。







母親が死んだ時、アゲハは毎日家で泣いて暮らしていた。

父親は葬式に出席したけれど数日もしない内に仕事へ戻り、姉は泣いてばかりいるアゲハを強く叱った。

「泣いたって母さん戻ってこないだろ!」

そう言う姉が、アゲハはたまらなく嫌いだった。

誰も死んでしまった母親の事を想わない。

自分だけが悲しんでいる。

だから自分は一人ぼっちだとアゲハは思った。

姉も父親も、母親が居るクラスメイトも自分の気持ちなんてわかる筈がない。

苛立って怒鳴るアゲハを友人達も避ける様になってしまった。



ポツンと一人でいる事が多くなった頃、いつからか学校からの帰りに必ず雨宮が着いて来る様になった。

何も言わず、黙ったまま家の前まで少しだけ間隔を開けてついて来る。

そしてアゲハが家に入ると、雨宮はその背中を見送ってから自分の家に向かって帰って行く。

暫く放っておいたけれど、毎日毎日本当にいつまでも着いて来るので、ある日アゲハは立ち止まり、雨宮を怒鳴りつけた。

「……なんでついてくんだよ!」

少しだけ驚いた顔をした雨宮は、直ぐにほっとした顔をしてアゲハを見た。

その顔には「やっと話しかけてくれた」と書いてある。

怒鳴りつけた声に怯んだ様子は窺えない。

その事に苛立って、アゲハは雨宮を睨みつけた。

「毎日家までついて来んなよ。お前ん家こっちじゃねぇだろ?」

「うん」

「何でついて来るんだよ」

そう聞かれると、雨宮は少しだけ目を伏せて口をもごもごさせた。

「あぁ?」

「……夜科が、一人ぼっちだから」

「……それでついて来てんのかよ」

「うん」

そこで会話は終ってしまった。

聞きたい事に雨宮はすんなりと答え、また何事もなかったかの様にアゲハについて来るつもりでいるらしい。

雨宮はじっと、アゲハが歩き出すのを待っている。

アゲハはアゲハで、八つ当たりでぶつける苛立ちの全てをするりとかわされ怒りの行き場を失っていた。

黙ったままどうしていいかわからず立ち尽くしていると、今度は雨宮の方から声をかけた。

「……行かないの?」

行けと言わている様で、それに逆らいたくなったアゲハは首を横に振って動かないとアピールした。

とにかくこの雨宮を、少しでもいいから困らせたい。

優位に立ちたいと考えた。

それなのに、

「じゃあ、私も行かない」

アゲハは顔を上げた。

放っておいて欲しいのに、一人にしてくれない。

一人なら、文句を全部他人にぶつけるだけで何とかやっていけるのに。

「……あっち行けよ」

声が震える気がして怖かった。

「夜科、泣いてるよ」

そう言われ、アゲハの心臓が大きく鳴った。

「泣いてねーよ」

「夜科」

心配そうな顔をした雨宮がアゲハに近づいた。

眉をハの字にし、アゲハの顔を覗き込む様にして見つめた雨宮は、本当に小さな声で、

「夜科、誰にも言わないから」

と言った。

関を切った様に涙があふれてアゲハは両手で顔を覆った。

かっこ悪い。

こんなところ見られたくない。

そう思っても体が全くついてこない。

ボロボロ泣くアゲハを、雨宮は少しだけ微笑んで見守った。







「……だから、オレは親父も、姉キもだいっ嫌いだ」

溜め込んだ涙を全部吐き出したアゲハは、そのまま雨宮に全てを打ち明けていた。

本当は誰にも言う気が無かった事だけれど、今更隠す事の方が馬鹿らしく思えた。

話を聞いた雨宮は、少し難しい顔をした。

「そうだったんだ。……でも、お姉さん、ホントに悲しくないのかな?」

「え?」

「聞いてみた事ある?」

「そんな事……姉キは全然悲しんでねーよ。オレが泣いてたって、泣くなって怒鳴ってばっかりで……」

「じゃあ、聞いてみたら? もしかしたら夜科と同じだけ悲しいけど、悲しみ方が違うだけかもしれないよ?」

「……」

最近、顔もろくに合わせず姿を見る事も避けていた姉と会話をする。

しかも自分から声をかけるなんて。

「ね?」

決めかねているアゲハの背中を、雨宮の笑顔が後押しする。

アゲハは不承不承ながらも頷いた。

「じゃあ、約束!」

差し出された小指はあまりに恥かしくて、アゲハは抵抗したかった。

けれど、雨宮の笑顔が逃がしてはくれない。

アゲハはしぶしぶ、本当にドキドキしながら自分の小指を雨宮の細い小指に絡めて縦に振った。

家に帰り、鞄を自室に放り出して台所へ行くと、姉であるフブキは夕飯の準備を始めていた。

こうやって母親以外の背中が台所に向かっている光景は、アゲハには違和感でしかない。

「あー、帰って来たか。手ぇ洗ったか?」

ぶっきらぼうな物言いで声をかけると、フブキは続けて今日はカレーだとアゲハに告げた。

「またカレーかよ……」

「文句言わない。食えるだけマシだろ」

そう言われ、文句を言おうとしたけれど止めた。

今日は雨宮との約束がある。

「……あ、あのさ。姉キ」

「んー?」

こんな約束別に守らなくても構わないけれど、ただ明日雨宮が「どうだった?」と聞いてくるのは明白で、聞かなかったらきっとがっかりするだろうな、とかそんな事を考えた。

姉の答えなんて期待していなかったし、また母親の事をと怒鳴られる方で覚悟をした。

「姉キはさ……母ちゃん死んで、寂しくねーの?」

目を合わせない様に聞いた。

直ぐに拳骨と怒鳴り声が来るものだと覚悟していたけれど、姉の反応は思ったより遅い。

恐る恐る顔を上げると、フブキはとても悲しい、と言うより辛そうな顔をしていた。

ハッとして、アゲハは姉を見た。

「あんた、ホント母さん好きだね」

時間の経過がとても長く感じた。

フブキの一言がアゲハにはとても重かった。

フブキの顔が、ふっと緩むとまたいつもの怖い姉の顔に戻る。

「悲しいけど、それでずっと悲しんでちゃ駄目だろ? 私は母さんに責任持ってあんたを大きくするって約束したんだから、だから毎日カレーでも文句言わない!」

小学生のアゲハにはフブキの気持ちの全てを理解する事は出来なかったけれど、ただ、姉も母親が死んで悲しんでいるという事は痛いほど理解できた。

だからアゲハは頷いて、一言ゴメンと伝えた。

「姉キのカレー、嫌いじゃない」

嘘ではないしそう言うと、フブキは嬉しそうに微笑んだ。








そんな記憶がどっと蘇り、アゲハは恥かしさともどかしさで一人身悶えた。

何故あんな事言ったか幼い自分……!!

どうして我慢出来なかったガキの頃のオレ!!

「おーい何やってんだアゲハ、HR始まっちまうぞ。入学そうそう遅刻かァ?」

友人坂口の軽口を聞いて我に返ると、アゲハは慌てて教室へ走る。

そして扉の前で立ち止まる。

おお……この向こうに雨宮がいやがるのか。

中学違ったから三年間でオレの顔忘れてねーかな……。

アイツの事だから、また授業中ガミガミ言ってくんだろうな参ったなオイ。

「おーい、アゲハ何止まってんだ。入れ入れ」

「わあってるよ!! 心の準備とかさせろ!!」

「緊張してんのか、オマエ」

「断じて違う!!」

教室の入り口で坂口と怒鳴りあっていると、その二人の横をスッと一人の女子が通り過ぎた。

アゲハはすれ違う瞬間、思わずその人物を目で追った。

背は伸びているし、雰囲気が違うのは大人っぽくなったからか。

けれど長い髪も、あの赤い眼鏡もくりくりした目も変わらない。

見間違える訳なんてなかった。

「……雨宮」

殆ど反射的に声をかけて、アゲハはしまったと思った。

忘れて欲しいと思っていたのにわざわざこちらから声をかけてしまったなんて。

けれど、慌てるアゲハをよそに、雨宮は呼びかけに答える事無くアゲハの横を通り過ぎ、自分の席へと向かった。

ちらりともアゲハの方を見る事はなかった。

いつも笑っていた口は一文字に引き結ばれて、いつもキラキラしていた目はどこか冷たく沈んでいる。

……あれ?

何か違うくねぇか?

「あー! 夜科久しぶり!! 同じクラスになったんだね〜。私が居るからには授業中は大人しくしてもらうからね、夜科!」

想像してたのはこんなやりとりで、でも現実の雨宮はさっさと鞄から小説を取り出し読み始めている。

見ると、頬に大きな絆創膏が張ってあり、手や足にも包帯が巻かれている。

あれ?

いつも周りに群がってた女子どもは?

てかオレの声、聞こえなかった?

もしかしてシカト?

ぐるぐる考えている内、クラスの女子が数人雨宮に声をかけた。

そして、それからクラスの伝説ともなる台詞を雨宮が吐いた。

教室中が凍りついた。










「参ァいったよなあ……」

「アゲハ、それ今日七回目」

「うっせぇ、数えんな」

椅子にもたれかかり、アゲハは空を見上げた。

気持ちの良い晴天で、春の日差しが目に染みる。

こんなにすがすがしい日なのに、全くもって気分はどんよりとしてしまっている。

「まァいったよなァー……」

思わず呟いて、頭を掻く。

「八回目」

「うっせェ」

忘れて欲しいなんて思わなければ良かった。

何の事はない、雨宮は本当に忘れてしまっている様だ。

なあ、覚えてる?

聞ける程あの頃の様に素直でも、子供でもない。

憂鬱さはため息の度に増していく。

「ねえねえ、夜科君?」

「……あー?」

「トラブルバスターってホント? 一万円で何でも解決してくれるって……友達が困っててさ」

「あーっと、アンタクラスメイトの」

「やだ、名前覚えてよ。倉木まどか!」

そう言って、短い髪を揺らしながら倉木は笑った。

こんな無防備な笑顔、ずっと昔に見たきりだ。

「……いーよ!まどかちゃんの為なら、どんな依頼だって引き受けちゃる!」

沈んでいた気持ちを吹き晴らす様に、アゲハは声をあげた。

ああもう、忘れようか。

それとも覚えていようか。

無かった事にしようか。

それとも思い出させようか。

変わり果ててしまった旧友があまりに悲しくて、寂しくて、アゲハは大声で笑った。

もう二度と、誰かの前で泣く様な事はないだろうなと思いながら。


あとがき
サイレン一話を読んだ時から暖めていた話です。
バックボーンが見えるまで書くまいと我慢していました。これで後から設定違うよーとかなると、ぎゃああああとなるので!
暗めの話になってしまいましたが、サイレンに行く前までの話という事で……。
2008.03.20

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