a tooth mark

目が覚めると、姫乃は明神の腕の中にいた。

今何時かが解からなくて時計を探そうとするけれど、抱き枕の様にしっかりと抱えられているので身動きがとり辛い。

かろうじて首だけ動かすけれど、部屋は真っ暗で何も見えなかった。

一体どの位の間眠っていたのだろう。

チラリと目を窓へやると、まん丸の月が見える。

時間を確認する事を諦めて、姫乃の体に腕を回してぐっすりと眠っている明神の寝顔を観察した。

幸せそうな顔をして眠っているけれど、枕がどこかへいってしまって首が斜めになっている。

それが可笑しくて少し笑ったけれど、明神は目を覚ます気配が全くない。

ほっぺたをつねってやろうかと考えて手を布団から外へ出すと、部屋の温度は思ったより寒く、慌ててその手を引っ込める。

高校三年の1学期。

最近、「今後の進路について」という話題が出てから明神がそわそわと落ち着きがなくなっていた事はなんとなくわかっていた。

来年は進学か、それとも就職か。

まだ全く何も考えていなかったし、母も特にどうとは言わない。

大学へ、という道が友人達のあいだでは一般的なイメージがあるけれど、明確な目標があまりないのでそれも決めきれず。

どうしようかどうしようかと言って、今日もそんな話をリビングでしていた。

姫乃は、自分の上にどっかりと乗っている明神の腕を眺めた。

がっしりと筋肉質な腕。

布団の外に出ているので寒くないのかと思い、よいしょと動かして暖かい布団の中へ避難させる。

思った通り、明神の腕はすっかり冷えきってている。

その腕をしっかりと抱えて一生懸命暖めた。

ごそごそと動いた為か明神が不満そうに「ううん」と呻く。

…一体いつまで寝る気だろう。

気にしだすと時間の経過は遅く感じられる。

何となく、姫乃はその二の腕に柔らかく噛み付いた。

「んん…。」

うっすらと明神が目を開ける。

慌てて、姫乃は口を離す。

「おはよう、明神さん。」

「ひめのん?…何か、今。」

「気のせい気のせい。何にもないよ!」

「そうかあ…?」

まだ寝ぼけているのかグラグラと頭が揺れている。

目を擦り、欠伸をし、頭をぼりぼりと掻いている内にだんだん目が覚めて頭がはっきりとしてきた。

ここは管理人室。

どうやら眠っていたみたいだ。

ピンク色のパジャマが目に入る。

ああ。

となりにひめのん。

…となりに、ひめのん。

「おわあ!!!!!!!」

布団から飛び出すとずざざざざ!と蜘蛛の様な動きで後図去る。

壁にドン、と背をつくとジーンズのズボンしか履いていない事に気付き、くしゃみを一つ。

「す、凄い動揺っぷりだね…。」

思わず呆れる、というより感心する姫乃。

「ひ、ひ、ひめのん…。」

よろよろと近づくと、姫乃を起こすと肩を掴んであちこち見回す明神。

「い、痛いとこない?大丈夫?しんどくない?気持ち悪くない?怪我してない?どこもぶつけてない?」

「大丈夫!大丈夫だって!」

「本当に?」

「うん。…そりゃ、痛くて死ぬかと思ったけど…。」

「ご、ごめん…。」

オロオロと焦る明神。

はい、とシャツを手渡されてそれを着る。

その間も、「大丈夫?大丈夫?」と繰り返す。

あんまり心配されて、逆に可笑しくなって姫乃は笑った。

…最近、姫乃のこれからについてがよく話題に上った。

それが明神は気になって仕方がなかった。

大学に行くにしても、就職するにしても。

このうたかた荘を出る事になるのではないかと、正直心配になった。

そんな事こっちの勝手な話で姫乃の進路、これからの人生は思ったとおりにさせてやりたい。

そして、それに口出しをする権利なんて自分には全くもってない。

けれど、今日もリビングで雪乃と繰り広げられていた進路の話。

姫乃の「どうしようかな〜。」という言葉が明神の心をグラグラと揺さぶった。

そして先ほど、つい数時間前。

夜遅くになって「相談が」と管理人室に姫乃が来た。

大学に行くにしても、就職するにしても。

ここにいて。

という言葉をずっと飲み込み続けた。

自分のしたい様にそればいい、としか答えられなかった事しか覚えていない。

明確な答えが欲しかったのか姫乃は少し物足りない顔をしていた。

30分程他愛の無い話をして、「そろそろ遅いから」と姫乃が立ち上がった。

明神は、喉元まで出掛かっている言葉を飲み込んだ。

飲み込んでは、また吐き出しそうになるのをぐっとこらえて更に飲み込む。

その甲斐あって、言葉は出さずに済んだ。

ただし手が出た。

部屋を出ようとする姫乃の背中。

このまま、部屋を出たら戻ってこない気がして。

もちろんそんな訳はないのだけれど自分の中で焦りと不安が理性を消滅させた。

立ち上がるとドアノブに手をかける姫乃を追った。

細い腕を掴んで、引っ張って引き寄せた。

強引に抱きしめてキスをした。

姫乃が驚いて大きな目が更に大きく見開かれていた。

その後の事は、覚えているけれど思い出すと背中が冷たくなった。

姫乃は悲鳴も上げなければ抵抗も全くしなかった。

…うわあ。

自己嫌悪。

明神は頭を抱えると大きなため息をついた。

頭で考えた訳ではない。

けれど、ずっと側に居てくれるにはどうしたらいいか、という幾つかの「案」の中で最も頭の悪い選択をしてしまった。

一人悶々と落ち込んでいると、姫乃が声をかけた。

「ね、寒くない?こっち来たら?」

姫乃が布団を肩からかぶり、ちょいちょいと手招きをする。

少し迷ったけれど、明神は姫乃の側へと向かった。

姫乃は明神を招き入れると、冷えてしまった体を抱きしめて温める。

「…本当に、大丈夫?」

先ほどまでは抱き枕の様にして眠っていたけれど、今度は姫乃をコワレモノの様に扱う明神。

「大丈夫だって。」

「…辛くなかった?」

「別に。明神さんだもん。」

こういうストレートパンチは本当によく効く。

明神は顔を赤くすると目を泳がせた。

「…ね、明神さん。」

「な、何?」

少し、改まった声に明神が身構える。

「私、これから進学しても、就職しても…どっちでもなくっても。」

「うん。」

「もともと、ここから出て行くなんてちょっとも考えてないからね?」

顔を寄せて、まるで小さい子に言い聞かす様に姫乃が言った。

「…え?」

「だから、心配しないでね。私もお母さんも、ここが大好きだから。明神さんと皆がいるうたかた荘が大好きだから。」

情けないけど嬉しい。

嬉しいけど情けない。

心が震えた。

「…ホントは、側にいてって、言いたかった。」

「うん。」

「でも、オレにはそんな権利ないから。」

「どうして?」

腕の中で姫乃が明神の顔を見上げる。

「どうしてって。オレは案内屋で、喧嘩しか能ないし。ひめのんには「普通」の幸せってヤツを掴んで欲しくて。」

言いながら手ぇ出してりゃ意味ないけど、と付け足す明神。

「普通って何?」

「え?」

「どういう状態が普通?」

「どうって…。」

普通に学校行って、友達作って。

それから好きな人が出来て、結婚して、子供産んで。

「それ、明神さんとじゃ無理なの?」

「…。」

言葉が出ない。

戦って守る自信はある。

けれど、ごく普通の家庭の幸せを与えてあげれるかどうかはわからない。

知らないから。

「…無縁断世の私を守って、更に幸せに出来ちゃう人なんて、この世界に明神さんしかいないよ。」

明神の服をぎゅうと掴んで頭を胸に押し付ける。

「お願いだから、勝手に無理って決めないで。明神さんが言う普通なんかいらない。私が欲しいのはそんなんじゃないもん。一緒に居られたら私は幸せなんだから。十分幸せなんだから。」

「…ありがとう。」

声が震えて、語尾が掠れた。

涙が出た。

姫乃が顔を上げようとしたので、明神は手で胸に押し付けてそれを止めた。

泣き顔なんて見られたくない。

それが嬉し涙でも。

「暖かくなったら、桜見に行こうねえ。」

明神の行動がどういう意味か解かったのか、姫乃は突然話題を変える。

「うん。」

「お弁当作るね。お母さんも一緒に。」

「ああ。」

「十味さんも誘ってさ、皆で行こう。」

「そうだな。」

「それでね、それとは別に、二人だけでさ、どっか行こう。」

「…うん。」

その会話を最後に暫く黙る。

そのまま、気が付いたら二人ともすっかり眠ってしまっていた。

「…う?」

目が覚めてきょろきょろと視線を動かす明神。

いつもと違ってなんだかポカポカして暖かい。

腕の中をそっと覗くと姫乃が静かに眠っていた。

胸の中がじわじわと暖かくなって、明神はそっと微笑む。

くうくうと眠る姫乃の体が温かい。

人間カイロ。

ぎゅうと抱きしめたら柔らかくてそのままどこまでも縮んでしまいそうだ。

「…ん。」

苦しいのか姫乃が身じろぎする。

手を離すとホッとした表情になって寝心地のいい場所を探す様に明神の腕の中でもぞもぞと動く。

その姿が可愛くて、愛しくて、声を出さない様に肩を震わせて笑った。

「あれ。」

姫乃の頭に手を回した時、自分の腕に見慣れない歯型が一つ。

うっすらと、小さな形。

「…いつの間に。」

眠る姫乃の顔を見下ろす。

すやすや眠って起きる気配は全く無い。

「…。」

明神は、姫乃のパジャマから覗く首筋に顔を近づける。

軽くキスをして、その場所に柔らかく噛み付く。

「…ん?」

うっすらと姫乃が目を開けた。

慌てて口を離す明神。

「…今、何か?」

「おおおはよひめのん。何にもない何でもない。」

「そう?」

目を擦って欠伸をして。

首をゆるく振ると少し目が覚めてきた。

外が明るい。

「あっ!!」

急にガバリと体を起こす姫乃。

「ど、どうした!?」

「もう、朝?」

窓からは光が差し込み、部屋の温度も少し上がってきている。

朝だ。

「ええっと、時間は…まだ6時半だけど朝、だな。どしたひめのん?」

「…昨日、お母さんに先に寝ててって言ってそのまま…明神さんに相談してから寝るって。」

二人の血の気がさーっと引いた。

姫乃は慌てて部屋を出ようとする。

「ああ!!待てひめのん!!」

それを慌てて明神が止める。

「何?どうかしたの?」

「いやあの、えっとだな。く、首。」

指でちょいちょいと自分の首の辺りを指す明神。

「首?」

姫乃の首元に、先ほど噛み付いた歯型がくっきりと残っている。

それは姫乃は自分では見る事が出来ない位置にあって、首を傾げて困った顔をする。

「何?」

「…鏡見てきて。」

「?わかった。」

パタパタと姫乃の足音が遠くなる。

すぐ戻ってくるのはわかっていた。

バタバタと足音が近づいてくる。

ほらな。

明神は布団の上で正座をした。

「み、明神さん!!何コレ!!」

「すみません。ちょっと調子乗りすぎました。」

「今日学校あるのにー!!」

「ええとコレでも使って下さい。」

差し出したのは黄布。

「使えるかー!!」

手渡されたそれを投げて返す。

「アア間違えたこっち。」

包帯。

「バカー!!」

それでもその包帯を受け取り、姫乃は階段を駆け上がる。

二階から「あら姫乃、昨日は遅かったのね」と雪乃の声。

…逃げよう。

明神は布団の中へ飛び込んだ。

寝たフリだ寝たフリ。

布団の中で丸くなっていると、部屋へと近づく足音が一つ。

コンコン、とノックがされる。

明神の心臓がバクバクと激しく鳴った。

「冬悟さん。」

案の定雪乃の声だ。

明神は布団を頭からかぶり、丸くなる。

「まだ眠ってます?昨日は姫乃が遅くまでごめんなさいね。」

「い、いえ…。あの、はい。」

寝たフリで誤魔化そうと思ったけれど、声をかけられたのを無視する事は出来なかった。

「朝御飯どうします?」

「き、今日は、もう少し後で頂きます。」

「そう?じゃあまたいい時間になったら起きて来てね。」

「…ハイ。」

顔を合わせるのが怖い。

怒ってる気がする。

いや、声はいつも通り優しい声で寧ろごめんなさいねというニュアンスの方が強かった。

怒っている気がするのは心にやましい事があるからだ。

悶々としていると突然ドアが開いた。

今度は姫乃。

「明神さん、御飯食べよう!
…一人だけ逃げようったってそうはいきませんよ。

声を潜めて明神をジトリと睨む姫乃。

自分だけ寝たふりして逃げようなんて虫が良すぎる。

明神は諦めて布団から顔を出してみると、姫乃の首には湿布が張られていた。

「寝違えた。
という事にしました。

ラジャー。

ムクリと起き上がると姫乃の後ろから顔を覗かせる雪乃。

「あら、起きたのね。じゃあ御飯用意するわね。」

「頼みます。」

布団を蹴って立ち上がり食事用の部屋へと向かう。

その途中雪乃が声をかけてきた。

「ああ、冬悟さん。」

「あ、はい。何ですか?」

「姫乃がね、進路決めたって。ありがとう相談に乗ってくれて。」

微笑む雪乃。

決めた?

いつ?

「えっと、ひめのんは何て…。」

「明神さん!お母さん!早く早く!遅刻しちゃうよ!」

聞きかけるとそれを遮るかの様な姫乃の声。

「あー…。本人から聞きます。」

昨日までの不安はなくなった。

とにかくどうなっても姫乃はずっとこの場所にいてくれる事はわかったから。

そして生涯を共にする相手が自分でも良いという免罪符も姫乃から貰った。

姫乃がこれからどういう道を進む事にしたのか、今は聞くのが楽しみだとさえ思える。

「現金なもんだな。オレって。」

明神は呟くと味噌汁の匂いがする部屋へと軽い足取りで向かった。


あとがき
書きながら書きたかったことが変わっていくという典型的な作品になりました。(汗)
何てダメな明神…!!
2007.01.13

Back